夢幻泡影 菖蒲帖





夢幻泡影 菖蒲帖



あらざらむこの世のほかの思ひ出に
いまひとたびの逢ふこともがな

懸念因子の小早川、毛利、吉川。
左近はこの三部隊は寝返る事を想定していた。
内応がある気がするのだ。
漠然と、しかしながら確実に。
左近は笹尾山本営で、総大将の三成に指示を仰いでいた。
三成は常に人を疑ってかかるが、一旦心を開けば頑なに人を信じる。
だから三成は西軍に与した面々は裏切らないと信じて疑わなかった。
否、そう思わなければ心が折れそうだったのだと思う。
「まさか、義を掲げて集った兵だぞ。裏切るものか」
左近の耳打ちした不安要素はもののみごとに一笑されて終わった。
もし二人なら、言い合いでもしてどうにか意見に耳を傾かせていた。
しかし、三成は総大将である。しかもその場には蒲生も居た。
「左様でしたら…」
面目は保たなければならない。
西軍が内部から崩れたら、この戦況に活路は無い。
左近は歯噛みし、本営を後にした。
勝ち目の無い戦になりつつあるのは、火を見るより明らかだった。
それは勘でなくても理解出来る。
左近は部署に帰ってからも心を病ませた。
だがこの義戦はどうしても家康を負かさなければならない。
「…納得したら、全て仕舞…」
左近の心身は凍り付き、霧は視野を濁らせていた。
左近が杞憂であってくれとの思いで空を見上げた。
暗雲と霧が綯い交ぜになった空。不吉な予感がした。
丁度その時。
「伝令!黒田隊の進軍にありまする!」
跪く伝令兵は早口に捲し立て、瞬く間に立ち去った。
左近は早速指揮をとる。
「手勢を二つに分け、一部隊は迎撃に備え!」
てきぱきと指示を送り、自らも陣を出た刹那。
黒田隊からの鉄砲隊一斉射撃の音がした。
左近は直ぐさま伏せろと声を張り上げた。
断末魔を上げて暴れる馬の鳴声。
空を切る弾丸の音。
悶え苦しむ雑兵達の叫び声。
「怯むな、進め!」
左近は自ら前線に赴き刀をふるう。
未曾有の大群に身震いする自分を叱りながら、懸命に敵を薙ぐ。
総ては殿の行く末の為。
この戦を勝たねばならない。
その思いだけが左近を奮いたたせていた。
足下は泥濘、泥が跳ねては血飛沫が降り注ぐ。
だが必死の攻防も空しく、無情にも鬨の声が敵方から上がる。
左近は無意識に舌打ちしながら兵を蹴散らす。
「加藤隊、黒田隊と合流の模様!」
状況は劣勢極まりない。
「抗い尽くせば勝機はある!」 激戦の中、叫んだ左近の言葉は轟く砲声に殺される。
「…殿、討死に!」
伝令兵が伝えてくるのは、不利な知らせと訃報ばかり。
敵勢は勢いを増すばかり。
もう家臣の誰が生きて、誰が死んだのかさえ。
「たあああぁっ!」
分からない。
不意に猛進してきた雑魚に左近は左腕を突かれた。
「お命頂戴仕る!」
血気盛んな敵方は足軽までもが牙をむいている。
負けてなるものか!
槍で刺された左腕をそのままに、左近は抵抗し相手の首を飛ばした。
「この首欲しくばとってみよ!」
がなる声に吹き出す血潮。
次から次へと現れる敵は容赦無く痛手の左近に切り掛かる。
散々往なしたが、鬼にも限界がある。
「最早これ迄だな…っ」
左近は吐き捨て、命からがら本営にと退却することを余儀なくされた。
多くの家来の顔が、慕ってくれていた笑顔が浮んでは消える。
自身の傷跡に爪を立てて馬を駆る。
左近は敗走と相成ってしまった。

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