夢幻泡影 菖蒲帖









「…、さ、左近…」
三成は怪我をした左近を笹尾山陣内で発見するやいなや、立ち上がった。
左近の泥に血に塗れて現れてた姿に、思わず腑抜けな声を出して。
慌てて近寄る三成を、左近は右手で制する。
「手当てをして、直ぐに前線に戻ります」
主は眉を顰め、物を言いたげに唇を噛んだ。
「まだ俺の部隊、半分は居る…筈…故に」
三成は刹那、穴が開く程左近を見詰めた。
激戦中であり、人も居る。
抱き締めたい欲望を押さえ込んで、左近は左手を庇いつつ跪いた。
「…殿、万が一があったなら、この左近。命に変えても時を稼ぎまする。」
腕から流れ出る血が酷く、泥水をも赤黒く染めた。
「死ぬ事は罷りならん!」
三成は、ついに地面に膝を付き左近の胸倉を掴んだ。
「俺を置いて逝くなど許さぬからな!」
三成の声は凛と通っていた。
しかし、左近の目の前の面は泣き出しそうに歪んでいた。
きっと雨のせいであろう。
まだ遠い筈の攻防線付近のざわめきがやけに近くに聞こえた。
「……」
左近は静かに己の死期を悟った。
「返事を致せっ!」
三成はもう形振構っていない。
大声で喚き、左近の両頬を両手で挟み自分に顔を向けさせた。
左近は黙って三成を見詰め、無言のまま抱き締めた。
傷付いた左手は、もう昔の様にきつく抱き締めることは出来ない。
三成は、なおも先に死なないと言う左近の返事をせがんだ。
「言ってくれっ!」
左近は耳元で微かに口を動かした。
「お慕いしております、誰よりも」
極上に優しい笑顔を浮かべて三成を離す。
「左近っ!」
死ぬ前に、愛しき人に思いを伝えれるなんて。
なんて幸せな生涯だったのだろうか。
左近は立ち上がると、三成に最敬礼をして陣を出た。
入れ違いに、大谷隊の伝令兵が滑り込み泣声に似た声音で叫んだ。
「吉継公自害!隊は壊滅っ…!」
もう、眼中に殿の姿は無いのに。
左近は陣内に蜻蛉返りしそうになった。
気配で、伝令の知らせに三成が途方に暮れたのが分かったから。
咄嗟に目を伏せ、言葉を搾り出した。
「頼むから…生きてくれ。」
陣の外は相変らず、霧で視界が悪いままだった。
しかし、雰囲気で幾許の猶予も無い事が分かる。
それなのに左近の心は潔く澄み切っていた。
「残存兵及び、待機部隊に伝えよ」
左近は、左腕を手当てしながら顎で合図を送った。
刺し傷は深く血は鮮やかな赤色を帯びていた。
だがもう、応急手当てだけで十分だった。
「阿修羅の死に様見せてくれる!」
現世に未練等、もう無い。
左近は馬に跨った。
最後の気力を振り絞り蟷螂の斧を振り翳す。
「はぁっ!」
鐙で馬の腹を蹴り、左近は死地へと舞い戻った。
残存部隊は後を追う。

 * * * 

前線では奮励している兵達も、一定間隔の種子島。
騎馬隊の突撃、鼓舞の歓声に正気を失いつつあった。
「放てぇっ!」
敵方の鉄砲隊の掛け声と共に。
「うわぁぁあ!」
「死にたくない!」
「助けてくれ!」
木霊する悲痛な声が空を裂いた。
まさに、地獄絵図。
血の雨が、駆け付けた左近に降り注ぐ。
左近は馬を乗り捨て、槍隊の突撃に応戦した。
雲霞の如く大軍が首を目当てに左近に襲いかかる。
左近は手当たり次第切り倒した。
「退くな、汚名と嘲笑われたく無ければ!」
渾身の叱咤激励は、最後の足掻きと前線に火をつけた。
左近も片手で指揮をとりながら決死に戦う。
だが一度負け戦となれば敵勢の勢いは止まらない。
しかも遠巻きに聞こえる歓呼が、宇喜多隊の敗走を知らせた。
左近は勝敗が決した事を、理解した。そして納得せざるをえなかった。
「…殿の退路を確保せよっ!!」
左近は仁王立ちをして刀を敵方に翳した。
刹那。
「撃てっ!」
黒田軍の鉄砲隊が左近に向かい一斉に鉛弾を食らわせた。
左近は全身の凍付く様な激痛に身を強張らせた。
景色は薄く紅く染まる。
身体は言う事を聞かず、立ち続けられない。
左近は後ろに転げそうになるのを堪えたが、重心を保てず前に突伏した。
微かに地響きが聞こえる。
「…殿…」
左近は、虫の息で声を出した。
息をしようとすると口からは血が出る。
堪え難過ぎるのか、全身の感覚は麻痺して痛さも分からない。
「…三成様…」
後何度、貴方の名前を呼べるのだろう。
「…殿…、…三…成……」
左近の目からは血の涙が流れる。
地獄絵を地表から眺めたらきっとこんな風に、紅蓮に似た真っ赤な色に違いない。
左近は瞬きしようとして瞳を閉じたが、開ける気力が無かった。
せめて、もう一度名を呼ぶぐらいなら。
仏も大目に見てくれるだろう。
左近は息を吸おうとして喀血した。
「…三成……さ…ま…」
『同禄でも構わん』
三成のぶっきら棒な声が聞こえる、愛想のない顔も相変わらずだ。
『俺が欲しいのは同志なのだからな』
嗚呼、これは…
左近はこれが走馬灯なのだと思った。
巡り巡った時の一部が鮮やかに思い起こされる。
『…俺は…勝ちたいのだ…っ!』
済みません、殿。俺は、嘘つきでしたね。
画餅を形にして差し上げるなんて嘯いて。
遠ざかる意識が、その走馬灯の終わりを静かに告げる。
もしも…本当に黄泉の国なんてあったなら。
左近が道標として、血を落して置きます。
もし殿が、俺の嘘を許して下さるなら、どうかあの世で逢いましょう。
嘘を吐いて、済みません。先に逝くことも、許して下さい。
刀の鞘から指が離れる。
「…俺…選……れて…愛……くれ……て……」

ありがとう。