夢幻泡影 芍薬帖





夢幻泡影 芍薬帖



瀬を早み岩にせかるる滝川の
われても末に逢はむとぞ思う

夢に見た世界は実に脆くて呆気なかった。
甘く柔らかな囁きも、途轍も無く苦しかった。
立ち上がるのを引き止めて、無理に口を割らせたかった。
その口で、死なないと言わせたかった。
左近は今迄で一番優しく笑った。
それは正しく、今生の別れの笑顔。
抱き締めた腕は強さを失い、仕方なさげに三成の肩を抱いた。
三成は笑ってやる事が出来ない。
「左近っ!」
泣かないで居る事がやっとだった。
左近は出て行きざまに振り返り、深く礼をした。
押し寄せる現実は、思い描いた夢を蹂躙し汚してゆく。
間もなく、吉継の自害が知らされた。

 * * * 

三成の本懐は、義の世を築くことである。
だから今は死ねない。
俺が死んで何の意味がある。
三成は死より辛い敗軍の将の肩書きを背負い逃げた。
見るも無残な屍を踏み越え、三成は戦場を駆ける。
追撃してくる黒田隊もなんとか振り切って道無き道を直走る。
林を縫いながら馬を走らせ、三成は泣いた。
最も理想の世界を見せたかったあいつが。
残してくれた、退路と時間。
霧は濃かった。悔しくて仕方なかった。
だが何故かその逃げ道は。
左近の温もりの様に暖かかった。
しかしお前を思った突如、馬が跳ね上がり横転した。
辛うじて受け身をとったが、肩先から地面に落ちてしまった。
「っ!?…な、何だ…」
直ちに身を起こして、馬に駆け寄る。
馬は痙攣に似た震えをしていて立てもしない。
そして割れた蹄に、胴体に打ち込まれた幾つもの吹矢。
三成は全てを理解して、息の荒い馬の鬣を撫でてやった。
「…良く、此所まで運んでくれた…」
馬に人並の心持ちがあるとは思わない。
だが確かに、俺が喋った後。
馬は涙を流した。
「……楽にしてやる…」
三成は馬の心臓に懐刀を突き立てて、命を奪った。
出来た馬だった。
主人を慮ってか、敵に居場所を知らせないようにする為か。
悲鳴ひとつ上げず馬は動かなくなった。
三成はそれを見届けてから、薄明かりを目指し歩き始めた。
落馬して麻痺した左肩を固定しつつ、獣道を進む。
「…俺は…死なぬ…」
枯れ葉が積み重なり歩く度に壊れる音がする。
霧が濃過ぎて一寸先も分からないのに。
それは己の心が風化し始めた事を知らせた。
「…左近、…左近…」
三成は何度も己に言い聞かせて、左近の後を追わないように努めた。
霧は未だ深い。
方角は愚か、太陽が出ているかどうかさえ分からない。

 * * * 

三成は逃げた。
集団は目立つので、生き残った近臣と別れて単独行動をとった。
だがその実、集団行動が危険だと言うのは建前だった。
本音は自分の弱り切った様を見せつけて、俺を選んだ事を絶望させたくなかった。
いや…お前に仕えたばっかりに等と言われたく無かった。
そうして三成は、旧の領地の伊香郡の三珠院に匿ってもらった。
しかし、賞金首を血眼で探す村人に発見されそうになる。
その場はなんとか凌いだが、もう時間の問題だった。
「…万事休す…か…」
三成は左肩を擦った。
左の肩口は、落馬が原因で常に痺れていた。
ものを掴めない事は無いが、使い物にもならない。
「…直に此所も探られましょう」
昔、俺に仕えていた小者が身の回りの世話をしてくれていた。
ただでさえ、匿うだけでも咎めは厳しいだろうに。
三成はこの小者に心底感謝していた。
「この奥の…」
その小者は奥山を指して言った。
「洞窟に潜んで頂けませぬか」
三成はただ黙って頷いた。
「されば…」
その小者は風呂敷の結びをといて広げた。
「…何だ」
「その身なりでは、勘付かれます。故に…」
それは継ぎ接ぎされた樵夫のような着物と草刈鎌。
「…辱い。」
三成は、精一杯の心尽くしとみすぼらしさに涙ぐんだ。
その日の黄昏に乗じて、三成は衣を変えて洞窟に移動した。
三成は着替え終わった後、左近の血糊が付いた陣羽織を燃やした。
これだけは、己の手で葬りたかった。
「……」
天を焦がす迄とはいかないが、それは三成の心を焦がし付けた。
さながら陣中の左近の笑みのように。
切なくいて美しいのに。
触れる事は許されない温もり。

 * * * 

三成は薄暗い洞窟の中でこれからの動向を思案した。
残りの手勢はどうだろうか。
四散した西軍の将は今頃どうしているか。
これからも組みしてくれる仲間は果たして居るのか。
そして。
俺は、戦であの狸を討ち取れるのかと。
三成は、洞窟の奥を眺めてそれから瞳を閉じた。
深い森林の冷たくて神聖な匂い。
心は洗われるが、どうして孤独が心の臓を啄む。
再び瞳を開けた。
「…黄泉にでも繋がっていそうな黒さだな…」
忍んで食い物を持って来てくれる小者も、日々の心労で頬がこけていた。
「…済みませぬ、今日は…」
もいできた、食べ頃には早い木の実と果実。