三成は立ち上がり、小者の側に近寄った。
「お前が、食え」
小者は驚き顔を横に振った。
「ご不満なのは承知しております、私が至らぬばか」
三成はいきなり小者の頭を鷲掴み、己の胸に沈めた。
「…もう、良い……」
そう言った三成の言葉は、あの世へ繋がっていそうな暗闇に消えていった。
小者は震える声で反論する。
「そのような弱気ではなりませぬっ」
未だ隠し通せるから、どうか諦めないで欲しいと。
貴方様には、生きて欲しいと。
しかし三成は、聞く耳を持たない。
「お前が頻繁に居なくなっている事実は、もう知れている筈だ」
麻痺した左手で、男泣きしている小者の背を叩いた。
「俺の生涯は、報われておった」
三成は、悟っていた。
もう、勝機などないことを。どんなに信心が深かろうと。
仏はこの状況を打開してくれないことも。
自力で切り開く力も与えてくれないことも。
そして自分が、関ヶ原という期を逸っしてしまったことも。
死に場所を失ったということまでも。
小者は尚も首を縦に振らない。
「…差し出がましい事ですが、なりませぬっ…!」
三成は薄く笑って、小者に優しく呟いた。
「後生だから、俺の最後の下知を聞いてくれ」
小者は泣き崩れた。
* * *
三成は、身柄を小者に引き渡させた。
咎めを受けない様に、今迄の礼の変わりに。
「軽々しい挙兵、真片腹いたいわ。それに敗軍の将が自害もせず…」
三成は家康の所に引き連れられるあいだや先で詰られていた。
側近にまでそんな罵声を浴びせられる始末。
「裏切りに遭わねば勝っていた。」
憮然と言い放つが、三成の言葉は布を裂く様に痛かった。
三成は大津城の門外に置かれた畳に座らされていた。
所謂、晒者である。
「その有様…無益な謀よ…」
通り過ぎる中には裏切った奴等も居た。
「義を捨てて約束を反古とした汚名、決して濯げはしないだろうな」
罵られてはそうやって言い返した。
「減らず口を…」
三成は整然と胸を張り続けていた。
俺のしたことは恥ずべき事ではない。
ただ、正義が必ず勝つとは限らないだけの事だ。
その思いが三成の唯一の誇りとなっていた。
夏の暑さが残る昼過ぎ。
恐ろしく長く感じられる時間。
気が遠くなる度に、引き戻すのは悪い知らせ。
行長が捕まった、安国寺も捕らえたらしい。
もたらされる情報は訃報の前置き。
ひぐらしの鳴声がする。
死への着実なる足音にも似た。
* * *
家康の大阪凱旋の序に、三成・行長・恵瓊の三人も連れられた。
首枷をはめさせられ、乗り物に上げられて。
まず、三人は堺の町を引き回された。
三成は冥土の土産のつもりで、堺の町を見下ろした。
一目俺達を見てやろうと、行く先々はごった返していた。
ふと、左近の声が聞こえた気がして視線を泳がせた。
どうやら、いつかの思い出が今のざわめきに乗じて思い出されたらしい。
三成は泣き出さない様に瞳を閉じた。
涙を隠す為の腕さえ、今は自由が利かないから。
場所を移して今度は京都市中。
水一滴も飲めず、流石に喉が渇いていた。
三成は白湯を所望した。
「生憎白湯はない。だがそこな老婆が柿をと言っておる」
役人が三成に柿を差し出した。
柿は痰の毒である。
三成は常日頃から食べるのを避けていた。
そんな代物が目の前にある。
食べても良いかも知れない。
どうせ、もうすぐ終わるのだから。
役人が口元に柿を突き出した。
「いただけぬ」
途端、野次馬やら役人やらが笑い出した。
この期に及んで選好みか。と。
行長が慌てて忠告した。
「老婆の好意を無下にしてはなるまいに」
三成は何も聞こえないふりをして頭を振った。
「死ぬ寸前迄、俺は諦めぬ。」
そして、行長を睨んで三成は続けた。
「志を遂げる好機があるやもしれぬではないか」
行長のまなざしは、形容しがたい悲哀に満ちていた。
三成はその視線に答えるべく優しく笑った。
嘲笑っていた何人かが笑うのを止めて、その笑顔に魅せられた。
殊更、柿を持って来た老婆はその姿に涙を瞳に溜めた。
三成達を乗せた台はまたゆっくりと黄泉路を行き始める。
* * *
土壇場、吹き溜まり。
落とされた首は落下して鈍い音をたてた。
吹き出す血潮は、やがて吹き溜まりを満たしてゆく。
艶かしい程のその赤は、この世の総てのどの紅よりも鮮やかで。
なによりも美々しく飛び散った。
そして三条大橋に晒された三人の首。
並べられた中の三成のかんばせは。
ただ寝ているだけのような安らかなる面持ちだった。
肉を貪りに来た烏さえも、近寄り難い程の。
終