朝月夜





朝月夜



嘆けとて月やは者を思はする
かこち顔なるわが涙かな

か。成程、今宵は臥待月だ。道理も通る。
三成は漸く仕事を切上げ、障子を引き廊下から空を見上げていた。
夏とは言えども、真夜中過ぎ。子二つ時である。
少し肌寒く感じたのか、三成は腕を擦る。
「…気に食わん…和歌だ…」
夜中にも関わらず、障子を力任せに閉めた。
ピシャンと歯切れの良い音。
部屋の入口付近の左近は目を見開き驚いた様子を見せる。
「…殿、もう皆寝静まっております。」
左近は三成と視線を合せず、使った硯に残る墨を拭っている。
「…構わん。俺の城だ。」
そりゃそうですがね。と方眉を下げ呟きながら、左近は書き損じの和紙を掻き集め始めた。
しばし無言になる両者の耳に入るのは、紙ずれの音と畳を滑る布の音のみ。
左近はきちんと全てを片付けて、あまつ屑箱を片手に立ち上がった。
「…では殿、ごゆるりと」
薄く笑ったと思えば、そこにはもう左近の姿はない。
他の者に気を使い、音も無く廊下に消えたのだろう。
三成は、先程まで左近の居た場所を睨んだ。

 * * * 

その日を境に、三成は月が嫌いになった。
別に月が悪い分けでもなし、和歌が悪い訳でもない。
だが、何かを憎まなければ三成は居た堪れなかった。
「…新月が待ち遠しいな」
月が欠ける様が気味が良い。早く欠けて無くなれば良い。
いつの間にか、下弦の月を見てはそうまで願うようになっていた。
夜な夜な月を見上げたまま、酒も呷らず寝ようとしない三成に左近が身を安ぜ始めた。
「…殿、夏とは言えその身なりで月見は頂けませんね。」
「酒を片手にした者の言えた義理か?」
神妙な顔と、態度がまるでちぐはぐだった。
顎で酒を指しながらそう言ってやったら、違いない!と左近が笑った。
月見酒しませんかと盃を出されて、少し心が弾む。
左近は慣れた手つきで支度を始めた。
奥に行き戻ってきたかと思うと、手には火のついた香。
「蚊取りか」
鼻を突いたのが菊の香りだった。
仄かな月明りに照らされた、白い糸の様な煙が左近の周りを包む。
「…興に水を指されては敵いますまい」
程よい間合いをとりながら香を並べた。
さてと。と左近は下座に座り、着席を促した。
「…まぁ、殿」
片手ではあるが早速盃を差し出し、酒を注ぎ始めた。
続いて左近は自分の盃を一杯にした。
こうして始まった宴に、三成は顔を綻ばせた。
ただ、嬉しい。滅多にこんな事も無いからな。
酒は好きでも嫌いでも無いが、三成は一気に酒を飲んだ。
気が置けないから余計にそう思えるのか。
今宵の酒は旨いと思った。
左近もまた旨そうに飲みながら、月を見上げた。
「…月、か…」
月に見蕩れる左近を三成は眺めた。
月は嫌いだが、月が無ければ左近は来なかった…
仕方ないだろう、月は人を魅せるのだから。
三成はそう言い聞かせた。
左近が手酌で自分の盃をまた満たしている。
白い細い月が盃の傾き加減で酒の水面に映った。
「…月は何故欠けるのでしょうな…月の無い晩程面白くない夜は無い…」
そうでしょう?と相槌を求められて、返事が出来なかった。
盃を口から離せば、答えなければならない。
頭では、体の良い返し方ぐらいわかっている。
そうだな。と言えば良いだけ。
それだけなのに。
「…月は好かぬ。」
左近は苦虫を噛んだ様に顰めっ面をした。
「…そりゃ、残念だ…俺は月が好きなもので、つい…」
左近はそれっきり喋らず、酒と肴だけが消えていく。
気まずさが漂い始めた。
三成はどうにか繕おうと考えを巡らすが気の利いた台詞が浮かばない。
上司に気を使ってか、月を見なくなった左近。
申し訳なさと腹立たしさが綯い交ぜになる。
「…そんなに月が好きなら、どうしてここに来た」
視線を敢えて逸らし、三成は蚊取り線香を見た。
寿命はまだ尽きないらしく、風の通り道である障子側へと煙が流れる。
そう、まるで俺と左近を隔てるように。
夜の暗さと煙の立ちはだかりで、左近との間合いは怖いぐらいに遠くに感じる。
「…美しいと思ったものを、一緒に愛でられたならと思った迄」
幾分遠慮するように、小声の左近。
こんな事を言ってやりたかった訳では無いのに。
変な自尊心が自身を素直にさせない。
「届かぬものの何処が良い?決して手には入らぬのだぞ」
言って後悔した。
左近に愛でられる月が憎い。
ただ月なぞ夜に浮いているだけなのに。
目の前に居る俺は、触れる事すら容易なのに。
「…手に入らぬから尚更…典雅なのですよ」