左近の呟きを聞いた途端、泣きそうになった。
つまり。
いとも容易く手に入る俺は。
「…月に負けただと…」
盃を持つ手がかたかたと震える。
あれ程蔑んだ月に。
あれ程罵った月に。
こうまで簡単に…
「…出て行け」
三成は、そう声を搾り出して左近を睨んだ。
左近は納得いかないらしく、何故と聞き返した。
「…出て行け、一刻も早く」
左近はそれでも動かない。
それどころかたじろぎさえしない。
三成は、必死に体の震えを止めようと盃を握った。
和歌のせいで気付いた恋心。
月のせいで直隠した恋心。
「月如きに負けた俺など捨て置けと言っておる!」
錯乱状態で立ち上がった三成の瞳から、涙が落ちた。
左近は見上げたまま動作が止まった。
「…殿」
三成は左近の呟きが苦しくて盃を床に叩き付け部屋を出た。
軒先に裸足で下り思慮もせず部屋から逃げた。
左近が慌てて追い掛けてくるのが、三成を大層惨めにさせる。
どうして追い掛けてくる。
どうして一人にさせてくれぬ。
三成はとうとう走り出した。
すぐに息があがったがそれでも走り、三成は離れの大木に身を委ねた。
そのまま座り込み、息を殺す。
左近が近くまで寄ってきたが、気付かないのかうろうろしている。
このまま気付くな…
三成は祈った。
「…殿…、殿…」
薄い月明りでは助け船にもならないのか、近いながらも左近は途方に暮れた呼び声をあげる。
何が悲しいのか分からないが、三成の目から涙が止めどなく流れた。
拭っても拭っても涸れない涙。
「殿!」
左近が俺を見つけた。
逃げたかったが気力もない。
左近が間髪入れず問い掛ける。
「…どうしました…月に負けたなど…と…」
泣いて居るのだと改めて認識したのか、左近が言い淀んだ。
なんて…情けないんだろうか。
自負もなにもあったもんじゃない。
「…これがお前の殿だ。失望するか?…」
投げやりな笑みが零れた。
暫く言葉を失った左近。
この長い沈黙の間に、出奔などを考えて居るのかと考えると、息が出来なくなりそうだった。
左近は困却し、しゃがみ込んで三成との視線を合せた。
「…とても、綺麗だと思いますよ。さながら…弱竹の姫君のようにね」
答えにもなっていない返答に、仕草。
「…意味…が、分からぬ…」
たどたどしく喋る三成に、左近が手ぬぐいを差し出す。
「…なぁに、簡単なことですよ。月に帰る姫君を愛しても詮無きこと。だから…故郷を愛しんだ」
左近はそうだけ言うと、空の月を見やった。
「月を愛すりゃ、一日以外何時でも逢える…要は…変わりに愛してたんですよ。意中の姫君のね」
三成には、まだ意味が分からない。混乱しているのは確かだが、それを棚にあげても理解が出来ない。
「単刀直入に言え…分からぬ…」
困った様に笑って、左近が近寄った。
ぎょっとしたがもはや遅い。
耳元まできた左近の顔に、心臓の速さは尋常ではなくなる。
「…好きです、三成様…」
低く、艶のある左近の囁きに身が萎縮した。
「…さっ…左近…正気、か…」
逃げない様に左近の袖を掴み、問うた。
「…真摯に慕って居ましたよ…殿」
女好きの島の左近が。
あの左近が。
三成は拳をにぎり、込み上げる思いを消す。
信じられない言葉に愛しさと切なさが入り交じる。
たとえばとか、まさかとか、もしかしてとか。
「…俺で遊ぶのがそんなに楽しいか?なんなら口でも付けてみろ」
精一杯の鎌を掛けた刹那。
何の躊躇いもなく左近は三成の唇に己の唇を合せた。
三成は袖を掴み続ける事すら出来ず力が抜ける。
触れるだけの口付けが左近から切られ、余韻が唇に残った。
「…っ、………」
一部始終に思考回路の伝達が追いつかない。
状況が判断できるにつれ、目が泳ぐ。段々と潤い始めた瞳。
現なのだと、耐え兼ねて涙が頬を伝った。
左近は三成を引き寄せ胸で受け止めた。
左近の心音が耳に響いてくる。
三成はただ一つ覚えの様に、済まない済まないと繰り返した。
「もがいても手放す自信はありませんよ」
更に抱き寄せそう呟く左近。
三成は縋り付くように好いていると思いを零した。
針の様に細い有明の月は隠れる時を知ってか、雲に飲まれて姿を暗ませた。
終