宵月夜





宵月夜



陸奥のしのぶもぢすり誰ゆゑに
乱れそめにしわれならなくに

などとまぁ、皮肉な一首が脳裏を過ぎる。
兼続は波打つ水面に映る己の顔を覗いた。
清めたばかりの顔から水玉が落ちる。
「…まだ契りすら交しておらぬのに…」
呟いた言葉の重さに堪えあぐねて、その場を離れた。
夏の暁は明けるのが早い。
藍色の朝顔が頭を擡げて朝露を纏っている。
その瑞々しい様に、思わず溜め息を吐く。
朝顔が悪いわけでは無い。むしろ羨しいと思う。
そなた程の品があれば、きっと…
ふと朝の鍛錬に精を出す慶次の声が聞こえた。
勇ましく清々しい慶次の声。
顔の滴を拭きながら、邪魔にならぬよう声の方へ近寄ってみた。
慶次の姿のなんと雄大なことであろう。
なんと美しい出立ちであろう…
言葉を失い視線を剥せない。
慶次は人の気配を察知したのか、射ぬく様な眼光で私を捉えた。
私だと分かるとたちまち視線を柔らかにし早いねぇ兼続。と笑いかけた。
身の毛もよだつ程の魅力的な破顔。
「…、真だな…」
兼続はただ笑い返す事しか出来なかった。
そなた一人のために乱れ始めた私の心。
なんと惚れたとは過酷なのだろう。
爽やかな夏の朝に、これ程とない虚脱感に襲われる。
私に向けられたその屈託の無い笑顔は、身に牙を食い込ませるだけで。
手には入らないものが目の前で揺らめいても、私を掻き乱すだけで。
「…朝餉を食わぬか?」
その視線から逃げねばならないと、私は咄嗟に身を翻した。
そうすることで、手には入らないのだと己を戒めるほか術が無かった。
忍ぶ恋こそ誠なれ。
何度も胸の内で呟き恋慕を殺す。
屋敷に上がり敷居を跨ぎながら奥に消える兼続の姿を、慶次は黙ったままで眺めていた。
「…兼続……」
慶次が仰いだ空は、突き抜けそうに高かった。

 * * *

昼下がり。
仕事に手を付けていた兼続は、明けの朝顔と慶次の顔を思い出していた。
見惚れていたのを思い出して目が泳いだ。
何とも心地悪い。己の不様が手にとる様にわかる。
えぇい、公私混合など言語道断。
頭を切替え仕事に目処をつけようと視線を落とす。
「…!……しまった…」
留守になってしまっていた手に握られたままの筆先。
急いで紙から離しても後の祭りである。
黒く大きく円に滲んだ墨。
無残にも後少しで仕上がりそうだった書状が一瞬にして紙切れになった。
「…よもやこれ程とは」
力無く筆を硯側に置き、障子を開け放す。
今日はもう、何もするまい…
兼続は目を伏せて無心になろうと思った。
庭先に出て深呼吸でもしたらどうかと、軒先に腰を下ろす。
「兼続」
天から降ってきたかの様だった。
おもむろに瞳を開きながら、頭をあげた。
流れる金糸。力強い眉に朱の目尻。鋭い、獅子の瞳…
「…慶次」
背中の方から覗きこまれているから、後ろに逃げる訳にもいかない。
前には逆さの慶次の顔。
そして、両肩には慶次の掌。
心臓が痛い。鼓動が鼓膜を破りそうだ。
「…今晩は望月だ、月見で一杯やんねぇかぃ?」
慶次のことを考えまいとして閉じた瞳が。
慶次を目の前に誘うなんて…
何たる皮肉。
その刹那、慶次の目力にやられてしまい顔を背ける。
その他に自分がこの世にとどまり続ける手段が無かった。
恋心を隠す手立てが浮かばなかった。
「…仕事が………」
やっとのことで出た声は自分でも訊き辛かった。
少しの沈黙の後、ふぅん。とだけ応えて慶次の暖かさが肩から消えた。
廊下の軋む音が遠ざかるのが分かる。
やがて消えた足音に、兼続は座ったなり動けなかった。
遠巻きの蝉時雨がやけに耳に残った。