万華鏡










 * * * 

慶次を上げた部屋に行くと、先に始めても言いといったのにそなたは律儀に待っていた。
きちんと並べた酒に、肴。
そう言えば、出雲からの酒の肴なんて聞いていたそれは何のことはないごく普通のつまみ。
ただ慶次の計らいか、色付いてない赤子の手のような可愛らしい椛が添えられていた。
「…待っていてくれたのか、先に呑んでいてくれと…」
「一人良いなら、あんたを訪ねる道理はない。」
あんたと呑みたかったんだよ、別嬪さん。
慶次は本当に無邪気にそんな事を言ってのける。
兼続は平静を装うのだけで必死だった。
注ぐからべく杯を持ち上げなと言われ、持ち上げて兼続は愕然となった。
手が震えてうまく酒を貰えない。
「…?稽古のし過ぎじゃないかねぇ、これじゃ字も」
書けないじゃないのかい?と続いた言葉と同時に慶次は兼続の手首を握った。
慶次はただ震えて注ぎ難いから手首を握ったのだろうが、兼続には予期せぬ事態。
「ぇっあ…」
何かに引きつったように跳ねた腕は、手の杯を掴み続ける事は出来なかった。
半端ながらに注がれていた酒は零れ床に転がるべく杯。
兼続が慌てて見上げた視線の先には、曇りがちな慶次の顔があった。
取り繕え。
「いきなり、手を掴まれては…」
兼続は己の手首を握りながら、笑顔を作った。
触れられた手は熱が篭ってどうしようもない。
自分で触れて、少しでも緩和させないと手の震えも止まらない。
「気にしないでく」
「もう、嘘はいいよ。」
兼続が作った笑顔を直視せず、慶次は笑った。
その笑いは本当に心からのように思えた。
「最近浮かない顔が多いから、相談でもしてくんねぇかなって」
慶次は落ちた惰性で転がったべく杯を拾って指で弄んだ。
「俺は…加減が分かんねぇから…」
私の仕草に動揺を隠せないのか、話の脈絡が通っていない。
それ以上に、さっき笑った顔とは一変して諦めた様な顔が伏せているのが解せない。
兼続は、先程身の上に起こった事と慶次の表情に混乱しきっていた。
「…畢竟、俺のせいだったんだよな」
ひとつの結論にたどり着いた慶次は立ち上がり、何もかもを其の侭に部屋を出た。
「もう来ない」
その一言を兼続に残して。
取り残された兼続は手首を握り締めたままに、慶次と言った。
嘘とは何の事だ。
あの笑顔は一体…
俺のせいって言うのは…?
何で帰って行った、のだ。
もう、来ない…
「…慶次……」
息の仕方も忘れたように、兼続は挙動不審にあたりを見回した。
意味が、解らない。
誰か助けて。
兼続は首を垂れて途方に暮れるしかなかった。

 * * * 

あの日から、頻繁に見えていた姿は文字通り全然見なくなった。
今日も見えなかった。
昨日も見えなかった。
仕事を終えて床につくと兼続は何時もそんな事を考えた。
せめて夢ででも逢いたいと願えども。
夢にさえ現れてはくれない慶次。
「謝りに行けば良いのか…」
でも、一体何を?
酒を上手にもらえなかった事を?
…そんな事で慶次は来ないと言った訳ではないと思う。
「…何で上手くいかないのだ…」
灯火も消えて暗い部屋で、兼続の声は震えていた。
今まで、私は頑張ってきた。
慶次にこの地にずっと留まって欲しいから。
縛られる事を嫌うそなたを縛らぬように、この思いも殺した。
何がまずかった。
何がいけなかった。
「…慶次…」
兼続は暗い天井を眺めて、ぽつりと言った。
つんと鼻の奥が痛くなる。
徐に仰向けに寝ていた体を横にした。
暖かい物が目頭と目尻から流れる。
「……誰が為に流す涙よ…っ」
こんなはずじゃなかったのに。
兼続は着物の袷を強く握り、夜に隠れるように泣いた。

 * * * 

眩しい朝が日に日に苦痛になる。
息が出来ないような眩暈は酷くなる。
水面を覗くと泣きに腫れた顔で、困った事が一度や二度では無くなった。
隠れて泣いた時から、決して泣くまいと誓いを立てたにも関わらず。
夢など見ないにも関わらず。
時折目尻に溜まった涙に、兼続は酷く心を病ませた。
病にかかったような蒼い顔もそれに拍車をかける。
あれからも色々考えたが結局己の非は相変わらず分からず仕舞い。
心の唯一の支えと言えば、昔の語らい合った他愛も無い話だけだった。
兼続はそんな取るに足らないような慶次との話を。
重ね重ね思い出して、寂しさを紛らわしていた。
思い出すたびに、あの時はあんな風で楽しかったとか。
こんな風に答えたら、反応が違ったのだろうかとか、と。
まるで、万華鏡に閉じ込めた水晶の破片を眺め続けるように。
思い出に思い出を重ね塗り、褪せゆく思い出をなんとか留まらせた。
するとどうだろうか。
思い出を忘れないようにと懸命になると、すこし痛みが和らいだのだ。
来ない事が当たり前になり、痛みは麻痺したのかもしれないが。
愛しい姿を思い描くだけで幸せじゃないかと思えた。