万華鏡









そんな状態が暫く続いた。
だから。
何度思い描いたか、解らないその姿が前触れも無く私の屋敷に現れた時は息が出来なかった。
飄々たる風貌の虎が私の屋敷を尋ねて来たその姿を見て、一瞬現実か夢かさえ判別できなかった。
軒先の一段下から、慶次は簡素な格好をして私を少しだけ見上げていた。
余りに目立つ金糸は宵口の空に再び日輪を呼び戻したような。
もう来ないと言っていたそなたは真、拝みたくなるような神々しさだった。
その太陽が、人の言葉を話す。
「餞別のお言葉を頂きに参った、拝聴…仕りたい」
真率な濁りの無い瞳が、私を捉える。
止めてくれ、そんな目で。
私を見ないでくれ。
どんな目でそなたを見ていいか、分からないから。
兼続は困惑し、見詰められた瞳を逸らした。
それにもう何年も逢ってない様な心持のするそなたと、やっと逢えたと思ったら。
今度は、別れの言葉などと…
どうしてそんなことを言うのだと喉まで出たが、口は開かなかった。
言えば答えてくれるだろうと、まだ微かに残る正気がそう自分に語りかけた。
だがそんなこと、慶次の勝手だ。
元からそんな男だったじゃないか。
寧ろ、あんたを二度と見たくないなんて言われたらとそう思うと。
理由も聞かず送り出した方が、私には幸せではないか?
そう…慶次とはひと所には留まれぬ、掴みどころの無い…
兼続は意を決し、再び視線を合わせた。
「…御仏に授けられたこの命で、現世で、そなたという男に出会えて本当に良かった!」
慶次は僅かだが、目を見開く。
「もう…二度とは逢えぬ事を覚悟して、風にでもそなたの噂を聞こうと思う!」
口角を上げ、瞳を閉じて。
「どうか、息災にな、慶次!」
完璧な笑顔を兼続は作った。
再び視線を合わせて、顔を拝もうと目蓋を開く。
快い笑顔が、あんたなら分かってくれると笑った顔がそこにある。
「……」
そう踏んでいた。
目の前に居る筈の慶次が滲んでぼやけて見えるまでは。
兼続は己の目がおかしいと、手を伸ばした。
指先に生暖かさが付着し、眩暈とも違わない浮つく足。
「…はは、少し…事が大きくてだな…その…男の涙と言うものは、貴重なのだぞ…」
摺り足で後退り、後ろ手で障子に手を掛ける。
つまらない意地を張るな。そう思う心と。
張った意地なら押し通せと頑なな心が、入り混じる。
「武士たる…もの、生涯に、三度と泣かぬの…だからな!」
もう直ぐ手遅れになると、警報が脳裏を渦巻く。
だが、居た堪れなさから手は障子を引こうと力を入れる。
「…楽しかったよ……」
口は思いの届かないところで動き、本心を語らない。
堪まらず伏せた瞼から、また落ちる大粒は涙。
「…嘘を吐いてくれるなら、もっと上手についてくれよ」
すっかり宵になった外気は慶次を闇に同化させる。
「…そんなこと言われたら俺…勘違いしちまうじゃねーかよ…」
堂々たる風格な慶次は、その装いに反して、握り拳を作っていたように見えた。
何時もの慶次らしくなく俯いた顔は。
暗くて分からないけれど、ぼやけているけれど。
きっと気のせいだが、震えている気がした。
「…楽しくなんて無かったくせに、本当は鬱陶しいかったんだろうが…」
そんな慶次が、耳を疑うほど小声で殺すように呟いた。
「打ち解けた振りさせて悪かったよ、気ぃ遣わせて悪かったよ」
なぁ、私はどうしたらいい?
「…もう、消えるからさ。…俺の事で悩まないでくれよ…」
私の方が勘違いしてしまいそうだ。
「俺…あんたが………」
そのような言い草。
切羽詰ったそのような、声音はまるで。
「慶…次…」
好いていると、言っているようなものではないか。
柄にもなく慶次の瞳は濡れていた。
人の形をしている虎には、そのような感情とは無縁だと思っていたのに。
何処か世間離れしている慶次は、私の事など暇潰しぐらいだと。
高を括っていたのに。
「…思わせ振んなよ……」
上擦った己を呼んだ声に甘さを感じたのか、慶次は溜まらず近寄った。
「慶…!」
そして慶次は、軒先に兼続を引きおろし抱き締めた。
息をさせることも能わせぬほどの力で。
兼続は予測さえ儘ならず沈められた胸板に息さえするのを拒まれる。
「苦しっ…」
上手く呼吸が出来ない。
現状が受け入れられ、ない。
「放せ…慶…」
「好き、だ……!」
慶次は堰を切った様に好きだと言った。
是の言葉を聞けないのなら、いっそこのまま玉の緒を。
奪ってしまいそうなぐらいの声音で。
慶次は思いの丈をぶちまけた。
兼続をきつく抱き締め、それ以外の言葉を知らない如く。何度も、何度も。
私も私もそうだったと伝えたかった。
だが、どうにも言葉に出来ない。不意に顔を沈められた胸板に阻まれ声が出せない。
空を切っていた左手が辛うじて自由が利くのみで。
その手で後ろ身ごろを引っ張るが、それは抵抗しているように思えるのか。
更に慶次の引き寄せる力が強くなるだけだった。
どうしてこうもうまくいかない。
なにもかも。
兼続は夢かと思う程嬉しいのに、嬉しいはずなのに。
納得がいかなかった。
愛おしいのに悔しいのだ。
兼続は慶次の背中に爪を立てた。
私だって、こんなに思っていたさ。
幼子のように悩んで、眠れなかったさ。
気が付けば。
隠し切れなくなって、いたさ…!
慶次は立てられた爪に、震えながら抱き締める力を緩めた。
「…だが、あんたの幸せに俺は居ないってか……」
違う。
「ごめ」
「違うっ!!」
自由の利くようになった右手も背に回し、兼続は慶次に縋りついた。
「ふざけた事を吐かすなぁっ!頓馬がぁ…っ」
何故そなたばっかり、そんな簡単に思いを伝えられるんだ。
だって悔しいだろう。
最初から意味の無い思いなのだと、ずっと言い聞かせて。
傍に居たかったから、募る思いをどうにかやり過ごして隠してきたのに。
何なのだ、腹が立つ。
畜生…
「…ふ、ふざけてなんか」
慶次は兼続の肩を掴んで引き離し、睨んだ。
「ふざけている!そなたはっ…」
兼続は前身ごろを引き掴み、背の高い慶次を睨み上げた。
「私だって、好きだったさっ……」
何故慕してしまったか、もう理由も忘れてしまう程に。
そなたに、こんなにも恋焦がれていた、さ。
慶次は目を丸め、肩に置いている手の力は完全に抜けてしまった。
兼続はそれにも気付かず、叫び続ける。
「そなたは良いよな!そう軽々と好いた惚れたと言葉に出来てっ」
だが、慶次はその言葉はいただけないと再び肩を掴んで言い返す。
「ぁ、あんただって愛する愛する謳ってんじゃねーか」
「民や兵を慈しんで何が悪い!!?」
「博愛なあんたにゃ、どうせ俺は相手にされないって、そう思わせたのはあんただろうがっ!」
「不羈が着物を着て歩いているような奴が、よく言うっぅ…」
兼続は涙目で睨んでいた目を伏せて、俯いた。
地べたに黒い斑点が増えていく。
ふと、横顔を触れられている事に気が付き振り払うように顔を振った。
しかし何度嫌だと顔を振っても、慶次はその大きな手で、私の顔を包んで私の顔を上げさせる。
少し濡れた瞳が、私を見て静かに笑った。
「…どれだけ懸想していたか、俺に教えてくれないかぃ…」
なんて、いけ好かない男なのだろうか。
いつだって、そうだ。
きっと、悔しいがこれからも…そうなんだ。
「…どうか、この思いを汲み取ってはくれ…ないか……っ」
慶次は最早言葉を紡がなかった。
再び地から離れた体は、もう地には堕ちなかった。
間近で見るそなたの容貌に脳髄が痺れる。
濃厚な口付けは、喉が渇き更に甘さを増した。
「あんたを思い焦がれるだけじゃ…もう、生きられねぇ……」
慶次はめいいっぱい兼続を抱き締めて、嬉しそうに目を瞑ってその場を回った。
「あぁ…ぁあ!」
兼続は振り落とされないように、抱き上げられた身を、その体にしがみ付かせた。
宵は凍て付きと静けさ孕み夜に姿を変える。
もしかしたら。
咲き誇る時を待ち侘びていたのかもしれない。
万の華に、姿を借りた思いは。
果て無き世界で、幾度も廻って。