* * *
兼続は意を決して召抱えた時に、設えた慶次の屋敷にやってきた。
酒を酌み交わすには少し早目だが、夕刻を過ぎると慶次は屋敷から居なくなる。
今を置いて酒に誘う好機は無い。
兼続の片手には持参した酒瓶。
いつかの為に用意していた一級品。
どうか、受け入れてくれ…
「慶次、居るか?」
暫く間を置いて、慶次の返事が返ってきた。
「…なんだい?」
障子が引かれるのと同時に、慶次の嗄れた渋い声が聞こえた。
途端兼続の頭の中が真っ白になる。
繰り返し練習した文句が出てこない。
「…兼続…?」
「…あの、な、…晩酌に付き合って、くれないか…」
こんな情けなく言うつもりではなかったのに。
酒瓶を持っている手は、汗を掻いて今にも落してしまいそうだ。
「…?…まぁ、構わないが…なんなら呼び出せば良いのに…」
「…その、思い付きの衝動だからな…断ってくれても良い…」
なんて自分で言っておきながら後悔した。
断って欲しい訳が無いのに。
言い終わると兼続ははにかんで慶次を見上げて、すぐ視線を外した。
「…男臭い部屋だが、良かったら入りな?」
慶次は障子を更に開けて、入室を促した。
「有難う」
兼続は花が綻んだ様に笑った。
足を一歩踏み入れた時に、仄かに白檀の香りがした。
男臭いと釘を打たれていた手前、立ち止まって驚いてしまった。
「…どうしたんだい?」
眉を下げて笑いかける慶次。不思議だなと顔に書いてある。
「…いゃ…良い香りがしたもんだから…」
すると愉快そうに慶次は笑った。
「俺を誰だと思ってる?傾奇者だぜ?」
兼続は面食らって、踊らされた事に気付いた。
慶次が風流人と名高い事をすっかり失念していた。
まんまと一本とられた訳だ。
「…虎は高貴に香を嗜むのだな…」
兼続はふっと笑って、完敗だと声を上げた。
「では一献差し上げたい」
慶次は兼続を上座に座らせると、手から瓶を取り上げた。
「私が、…」
兼続は取り上げかえそうとしたが、慶次に制されてしまった。
「俺の上に立つなら、悠然と構えてくれなきゃ困る。」
そうまで言われてどうして動けるだろう。
兼続の返事は決まりきっていた。
「…されば、注いでくれ、慶次…」
あぁ、と笑いかけた慶次の顔は真男が惚れる潔さだ。
…そなたと居られるだけで幸せだと思えねば…
兼続は、注いでくれた酒の水面を眺めた。
橙に染まる縁側。黒い遠山に燃える日輪。
何故か全てが私を後押ししてくれている気がした。
* * *
兼続はそれから暫くは、あの日を思い出して想いを馳せていた。
注いでくれた酒は、とてつもなく美味かったなとか。
あの部屋は、物凄く居心地が良かったとか。
だが人間は欲深いものだ。
あの日が鮮やかに色褪せるにつれ、兼続は焦り出した。
試しにあの酒を一人で飲んでみたり。
夕焼けを暮れるまで眺めてみたり。
終いには、白檀を取寄せて焚いてみたりした。
兼続はまたあの金色の闇が、冷たさを剥き出し始めたのに気付いた。
あの闇は一時は、はち切れんばかりに膨張する。
しかし、熱を失うといとも簡単に萎む。
「…慶次…」
己の呟きに兼続は我に帰った。
部屋はもうすっかり陰り、そろそろ垣根の向こうを慶次が通る時刻。
兼続は急いで軒先に顔を出した。
丁度、目の前を慶次が通っていたが当然声なんてかけれない。
慶次が兼続に気付いていないというのもある。
だが、それ以上に声を張り上げるだけの気力が無かった。
兼続はもう、慶次の姿を見付けるだけで言葉を失うまでになっていた。
完全に前田慶次の虜となっていた。
道なりに進み闇に消えた慶次を見詰め、兼続は力なく視線を泳がせた。
「…慶次…」
今更。何を思って名を呼んでいるんだ…
「…いかん、考えるな!」
兼続は両手で左右のこめかみを押さえた。
だがそれだけでは、もう自制出来ない。
兼続は血迷ったかの如く、廊下を直走った。
黒と橙は相容れないのか、あらゆる景色がくっきりと目に焼き付く。
胸が焦がれる。
唯、徒に。
息を切らしながら、兼続は慶次の屋敷を目指した。
着いた途端に勝手に屋敷に上がり障子を引く。
部屋から溢れ、香る白檀が兼続の心を掻き乱す。
そのまま進み、兼続はゆっくり瞳を閉じた。
少し甘くて、切ない匂い。
慶次の、残り香…
「…愚かしいな…」
兼続はそうは思うのに、不躾に入った慶次の部屋から出る事が出来なかった。
「…咎められたりしたら…どうするつもりなのだ…」
相変わらず、慶次の香りが身を抱く。
「…もう、少しだけ…」
兼続は神にでも祈るように呟いた。
どうか、この傷心が。
この傷口が継ぐ迄は。
この愚行を、暖かき目で見逃してくだされ。
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