反魂香





反魂香



どうか誘ってはくれないか
夢に出てこぬ愛しき人を

兼続は余りの息苦しさに目覚めた。
寝ていただけなのに、輪郭から汗が滴り、首筋に沿って流れる。
暑いのか寒いのかよく分からない程、意識が朦朧とする。
「…謙信公…」
縋る思いで名を呼べど。
一人きりの部屋では意味もなさない。
白湯を、白湯でも飲もう…
ふらふらと立ち上がり、兼続は部屋の外に出た。
外気が驚く程冷たくて眠気が瞬く間に醒める。
しかし、同時に吐き気も催した。
「…まずい………」
兼続は立ち眩んだように足から崩れ、膝をつき口を手で押さえた。
「如何なされました!?」
物音に気付いたのか、小姓が近寄ってきた。
天地がまわり、掴もうとした手は小姓に触れられない。
「旦那様!誰か、旦那様がっ…旦那様が…」
遠ざかる意識のなか、兼続は微かに笑みを称える謙信の姿を思い描いた。

 * * *

「兼続が倒れた!?」
夜にしては嫌に慌しいと、目を覚ました慶次。
障子を引き、血相を変えて何処かへ行こうとする小姓を不思議に呼び止めた。
慶次は一気に醒めて、小姓に詰め寄った。
「容体は?今何処にいる!?」
「落ち着いて下さい!容体は安定しております…」
しかし、慶次は食い下がらない。
下がれるものではない。
「何処に居るんだって訊いてるんだ!」
自室と聞くなり、慶次は襦袢姿で飛び出した。
小姓が後から付いてきて何かを言っているが耳に入らない。
「…あの御仁は…!」
慶次は夜中にも関わらず音も気にせず廊下を進む。
部屋まできて、確認もせず戸を引いた。
そこには、寝ている筈の兼続。
「今晩は起きるとは思えませ…旦那様!?」
小姓は制止しようとしていた慶次をそのままに、兼続に近寄った。
「…兼続…」
香炉から引っ切り無しに上がる煙。
背の高い慶次は立ち込める煙に噎いだ。
吸い込むと頭がくらくらする、尋常では無いその部屋の薫り。
「…旦那様、おやすみ下さいませ!」
しかし、兼続は頑なに香炉の前から動こうとしない。
それどころか煙を眺めながら虚ろに目を泳がせる。
「…兼続は俺に任せな」
慶次は近寄りながら、小姓に話しかけた。
何度かこの様なことがあった。
勿論、小姓には初めてだろうが。
「されど…、…お願いいたします…」
手に負えないと判断したのか、小姓は頷き身を引いた。
慶次は兼続の肩に手を置いた。
「…謙信公…?、…慶次か…」
見上げた兼続のなんと痛ましい事だろう。
乱れた髪に、生白い肌。
誰を思っているかなんて、聞かなくてもわかる事。
「…失礼」
慶次は兼続を救い上げるように姫抱きにして部屋を出た。
小姓が後を追って来る。
「…あの部屋、十分に換気しときな。香は捨てちまいな…後…出来れば畳とかも換えとけば良い」
慶次は言い聞かせながら、兼続を見た。
いつの間に気絶したのか。
事切れた様に気を失い息をしているかどうか分からない。
その顔はまるで、愛しき男に抱き上げられた女そのもので。
小姓は御意と言うなり踵を返した。
「…」
兼続から香る、甘ったるい胸が焼けそうな匂い。
髪が揺れるたび匂い立つ。
まるで兼続が香木のようだと慶次は思った。

 * * *

「…気が付いたかい?」
兼続は慶次の声が謙信の声に聞こえたのか、謙信公?と言った。
苦笑しながら覗き込む慶次は濡れた布を兼続にあてがう。
なにもする気が起きないのか、兼続は布を掴んだまま動かない。
「…慶次の部屋か…」
正確には慶次が泊っていた部屋だ。
帰るのが面倒などと言ってよく泊っている一室。
消え入る兼続の声に、慶次は優しく話しかけた。
「もうじき夕餉だ、なんか喰えるかい?」
朧気に兼続は慶次を捉え、徐に頭を横に振る。
その瞳がどれだけ、目当ての人物で無いかと落ち込んでいるのも簡単に分る。
「…あんた、夜に倒れてから今まで寝てた…」
慶次は兼続の握っていた布を取りながら喋る、瞳は合わせられない。
そうか…私は…と言いながら兼続は瞳を閉じた。
「…何と言うていたらく…」
兼続は無理に体を起こし、上掛けを除けた。
「…寝ときなよ」
慶次が褥に押し戻そうとするのを制して立ち上がる。
「…すまぬな、もう調子も良い…帰る」
兼続が一歩踏み出した途端。
膝が笑ったのだろうか。
兼続はその場にしゃがみ込んでしまった。
俄に信じられないのであろう。
「…おかしいな…寝過ぎて歩き方でも忘れたか…」
などと必死に冷静さを装おうと慶次に笑いかけるも、慶次は笑わなかった。
「…兼続、あんた…」
同情に満ちた目で見られ、兼続は堪らず顔を背けた。
寄ってくる慶次を軽くあしらうものの、どうして、立てないのか。
ともすれば、悔しさと取れるような顔であんたは自分の膝を叩いた。
「……謙信公には逢えたかい?…」
兼続は体をびくつかせ慶次を見た。
唐突な問掛けに言葉も失う。
冷や汗が出て体温が下がるのが、己の事ではないのに手に取るように分る。
しかしそれは俺とて、同じ事。
一度訊いてしまえば辛い物だとは、想像に難いわけが無い。
「…何を、…慶次…謙信公は身罷られたではないか…」
嘲笑うかの如く兼続は言った。
宵の口辺りはすっかり暗く、慶次の顔にも影がさしていた。
「反魂香だろう」
慶次は目を細め、兼続は返事が出来なかった。