毘藍婆
ひとつ真実を知る度に
搦め捕られて動けない
男に惚れたなんてのは、言わば褒め文句。
男女のそれとはまた違う。
だが、何時からだろうか。
俺の思いとは別に、恋心とか言う奴が勝手に疼きだしたのは。
ただ、それをやり過ごすのは、至極簡単…
* * *
日がな一日。
俺は兼続の後を松風に乗り城下を徘徊していた。
京と離れているため風光明媚ではないが、味のある良い町。
視察がてら一日を使い見回っていると、いかに目立つか、また兼続が慕われているのかが分かる。
いつの間にか、二人の馬は心尽くしの土産もので溢れてしまい、今は馬から降りて手綱を引いていた。
「…まるで物乞いをするために歩いた様なものだな…」
嬉しい顔を作ろうとしているが後ろめたさもあるのだろう。
兼続が眉下がりに微笑んだ。
慶次はその笑顔に魅せられて笑ってしまう。
すると、慶次もそう思ったか。なんて今度は可憐に笑うから。
俺は目を泳がせてやきもきした。
群衆の喧騒も段々と遠のき町外れに出る。
こんな荷物でもなけりゃ、気晴しに野でも走らないかと誘うのに。
恨めしく積荷を見た時。
「…崩れそうなのか?」
兼続は突拍子もないことを言った。
崩れそうなのは俺の理性さ。
慶次は喉まできた言葉を飲み込んだ。
この、何処か隙があると言うか…抜けていると言うか。
凛とした中にも、柔らかさがある。
それがどうして俺を惑わせないだろうか。
「…ちゃんと抑えてる」
慶次は意味深に兼続に言葉を返した。
「もう、一里も幾分。民の心を落とさぬでくれ」
一本の大通りの奥に、米沢の城が見える。
慶次は、後一里ぐらい伸びれば良いと思った。
二人で過ごす時間なんて限られている。
並んで歩く兼続の横顔は切っ先によく似ていて、危うくも美しい。
この顔を瞼に焼き付けるだけの時間をと慶次は仏に慈悲を求めた。
すると、季節の変わり目に吹く風が砂埃を巻き上げる。
「…風が強いな…ゆっくりと行こう…」
兼続が目を細め慶次を軽く見上げた。
慶次は生まれて初めて仏を信じた。
* * *
兼続は文学青年であった。
体が鈍らないように、鍛練や畑仕事をするがその他の時間は本の虫と化していた。
今日もそれは変わりはしない。
縁側や障子の側できちんと正座して頁を捲るその様。
清浄でさえある。
だからと言って、慶次が飽きないなんて事はない。
毎日変わらない読書の習慣は正味、退屈だ。
何が面白くて、そんなに本を読むのか。
漢詩や和歌を考えたりするなら未だしも。
兼続が選ぶのはお堅い本ばかり。
まるで寺の跡取りにでもなりそうな物なのだ。
俺は帰路の季節風を思い出し、いつもの習慣を忘れた振りをして兼続を訪ねることにした。
慶次は専ら、槍が得意だが兼続は剣術に秀でている。
だから、剣術の指南を頼みにきたのだ。
更に強く成れればそれにこしたことはない。
だが、邪な考えが無いとは言えない。
「……卑怯な振舞いさ、どうせ」
二本の木刀を持ちながら思わず自嘲。
慶次は庭から兼続を訪ねた。
それでも…側に居たい。あわよくば、手に入れたい。
「邪魔するぜ、兼続」
慶次は真剣に読み耽る兼続の書物を抜き取った。
「…ぁ、……慶次!」
言う事を聞かない子供を叱り付ける様に、眉を顰めた。
「…ご教授願いたい」
本の変わりに木刀を差し出した。
兼続が畏まって座って居るからか、自分の後ろから西日が当って居るからかは分からないが。
俺はこの願いは叶うと思った。
「………っ」
兼続は眩しいのか不快に思ったのか分からない。
細めた瞳は何せ意図が読み取れぬ、微妙な顔だった。
「…済まないが、勘弁してくれ。…本を返せ…」
慶次は渋々本を返したが、どうして引き下がれるだろう。
「…魚、干涸びるぜ…」
俺はおどけて笑った。
途端に兼続を取り巻いていた厳めさが晴れた。
「…済まぬな…どうしても勉学の時間は削りたくないのだ。」
兼続の答えは尤もなのだが、慶次はそれでも諦められなかった。
「あんた、十分博識じゃないか。今更…」
その言葉を訊いた兼続は、小さく笑って頭を傾げた。
「…未だ未だ。謙信公には届かない。」
何で、今、謙信の名が浮かぶんだ。
慶次は微かに口を動かした。
生憎背後の太陽のおかげで、兼続に口の動きを悟られることは無かった。
「…、そうかい…じゃあ…励みな。邪魔した…」
慶次は踵を返して即、歩き始める。
首を傾げた兼続の高尚さ。
白い透き通った肌。
頬を流れた黒髪。
艶やかな唇から発せられた。
毘沙門の、名。
「…それが、どうした…」
慶次は、然り気無く吐き捨てた。
所詮、この世にはもう居ない。
呪文のように呟き続け、垣根に咲いた牡丹の首を刎ねた。
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