毘藍婆










 * * * 

それから暫くしたある晩。
俺は景勝公に呼ばれて酒の相手をしていた。
筋を通さなくても、まずは筆頭家老の兼続の役目だろうに。
慶次は腑に落ちない。
しかし、だからと不平を並べてもどうにもならないが。
「…どうして、また…一端の俺なんかが相手で?」
不躾ながらも訊いてみたい。
景勝公はちらりと目配せして、僅かに口角を上げた。
「…兼続の推挙よ。」
兼続の名が出た瞬間、心ならずも胸が弾んだ。
「…そちは…各地流浪の身故に…興味深い話が出来るとな…」
部屋の灯火が揺らめいて、慶次は盃を見詰めた。
頼りにされると言うのはなんと喜ばしいことだろう。
感激で綻びそうな顔を隠す為、指に力を入れた。
水面は滴でも落ちた如く波紋を描く。
「…期待に沿えたなら…光栄の極み…」
不謹慎にも慶次は、目の前の景勝公を見ながら兼続を思い描いた。
酒を呷りながら話すうちに、景勝公は俺より先に酔いがまわったらしい。
いつもの顰めっ面が和らいでいる。
そんな景勝公が、突然喋り出した。
「…与六、…兼続が、何故…あんな弁が達者か知っておるか?…」
半分聞き流しかけたが兼続との単語に耳を傾けた。
「…あれはな、かの養父上の為よ。」
慶次は命拾いした。
景勝が目を伏せがちに話をしていたからだ。
慶次は酒の為に抑止力に欠けてしまっており、景勝を睨んでしまった。
直ぐさま正気を戻して視線を逸らす。
「…養父上は、多くを語らぬ御人であった…」
景勝は、最早聞いていなくてもお構いなしと言ったところ。
「…それを傍らで見て育った与六は、養父上の口に成ると言うてな…」
ふっと息を吐いた景勝は、愛しい弟を語るように続けた。
「…今でも、口に成る為に…勤勉よ…」
天から地に落された気分だった。
度がきつい酒を飲見過ぎて手が震えていると景勝公は感じたのか、もうお開きにしようと言った。
だが、無意識に景勝は慶次の傷を抉る。
「…与六とは…愛、奴よ……」
景勝には聞こえない。
慶次の握った盃が、断末魔の悲鳴を上げて圧し折れた。
景勝は千鳥足とまではいかないが、ふらりと立ち上がり奥手に消えた。
慶次の指は酒と血で塗れていた。
「…だから、なんだってんだ…」
俺には関係ない。
慶次は歯軋りした。
この兼続を慕う心には、小指の先程も関係無い。
そう心に言い聞かせ続けた慶次は、棘の刺さる掌を握りこむ。

 * * * 

例によって慶次は、兼続に呼び出されていた。
無論、昨日の酒の首尾である。
兼続は粗相が無かったか気にしていた。
気さくに笑い掛けながら、兼続はあらましを訊いてくる。
「…上等な酒であったろう?亡き謙信公のお気に入りの名酒なのだそうだ」
会うなりそれだ。
おまけに好かない名まで飛び出しやがる。
慶次は傷だらけの掌を握った。
「…どうして、兼続が行かなかったんだ…」
皮肉の一つも言ってやりたい。
兼続は首を捻った。
「慶次は気風清々しい、良い男だからな…景勝様にも知って欲しかったのだ」
言い終わると、兼続は満足気に微笑んだ。
俺は咄嗟にそっぽを向いた。
もう糠喜びは御免だ。
体裁よく繕ってくれなくて良い。
どうせ突き落とすなら、いっそ一思いに落してくれ。
慶次は冷静に兼続を見た。
「…なぁ、あんたの背中の愛の字って…なんだ?」
だが、心の何処かでは可能性を信じていた。
もしかしたら、たまたま兼続の習慣や昔話が接点があるように思えただけで。
実際にはなんの関わりも無いのではないか。
俺が兼続を気にしているばっかりに、つい悪い方向に考えたのではないか。
俺はそうであってくれとの切望を胸に、兼続に文字の意味を聞いた。
「…これか」
兼続は嬉しそうに俺に背を向けた。
なかなか似合っているだろうとでも言いたいのか、振返りながら白い歯を見せる。
まるでおめかしした、うら若き乙女のようだ。
「これはだな、愛染明王からお借りした由緒正しい字だ」
慶次には兼続の全ての仕草が堪らなかった。
嬉しくも何とも思わない。
きっと続きはこう言う。
絶対にこう言うに決まってる。
予想していた最悪の、結末。
「毘沙門天の毘の字は烏滸がましくて使えないってか?」
兼続は心中を見抜かれたと思い向き直り、慶次を絶賛した。
慶次は虚ろに、兼続の笑顔を見た。
そんな事実、知りたくなかった。
兼続の口から零れる言葉は、今の俺にはどんな責め苦よりも心の臓を掻き毟る。
もう、どうしようもなく心はぼろぼろだった。
「…慶次?」
兼続はやっと慶次の変化に気付いて具合を聞いた。
しかしそれは心配と言うよりは不審に近かった。
「…兼続……」
雀が庭で拙く歩いている外は、穏やかな日和だった。
極めて正常な廻ってきたと言わんばかりの、有り触れた。
慶次は不意に忘れかけていた事実を思い出した。
そんな当たり前が、こんなにも身を責める。
上杉家が崇めている仏は、越後の護身仏は…毘沙…門天……
そう俺が信じた仏は、あの憎き毘沙門天だったのだ。