嗚呼柳緑而花紅





嗚呼柳緑而花紅



四十九年
一睡夢一期栄華一盃酒

…柳は緑…花は紅…か…
兼続の口癖を慶次は思い出していた。
雨期の前の爽やかな風を浴びようと慶次は山の中腹に上り終えた所だった。
山村を鳥瞰しながら、ふと兼続を思い浮かべる。
けれど自分の記憶でさえ、あの御仁は思い通りにならない。
瞼の裏の兼続もまた俺を見ようとはしない。
「口惜しいなぁ…そうだろ、松風」
愛馬の鬣を撫でながら慶次は息を吸った。
何度か深く呼吸をし、疼く胸を宥める。
開けた視界には、深山颪に吹かれた若草が舞い上がって通り過ぎる。
「…謙信公、あんたは…いつまで兼続を凌駕するんだい…」
慶次は漸くその名を言えるまで落ち着いて、己を嘲笑った。
逝去してから何年も経つ。
それなのに。
今日も今日とて兼続は謙信公の時世の句を口吟む。
誰に聞かせようとしている訳じゃない。
それはまるで。
自分を納得させようとしている様でいて。
慕い続けていると伝えようとしている様で。
見るからに心は此所には無いのだ…
「…止めだ、止め!」
頭を振り、思索を止めようと努める。
こんな事を考えてどうなる、と。
しかし慶次の思いとは裏腹に、ある夜が脳裏を過ぎる。
星月夜の晩だった。
謙信公の忘れ形見の盃を傍らに、酒を一人で飲んで思いを馳せている兼続を見た。
徐に音も無く動く唇。
『…柳は緑故に、花は紅に染まるのです…』
噛み締めるようにゆっくりと、盃に話しかける兼続。
盃に落ちた雫の美しさ。
俯く兼続の痛々しさ。
俺には、入る隙さえ与えてはくれない。
両手の冷や汗が理性を保てていないことを知らせた。
慶次は結い上げた髪を無理に振り乱し、風に泳がせた。
熱を冷ますように通り抜ける風。
「…畜生……!」
握り締めた拳からは、鮮血が滴り落ちた。

 * * * 

「…あぁ、慶次。散策にでも行っていたか?」
帰るなり行き成り兼続に会い、慶次の心中は動転する。
種子島の練習でもしていたのか、白い頬や手に炭をつけた兼続。
少し間抜けだと思う。
いや、私には向かないななんて言いながら近寄ってきた。
己で傷をつけた掌がじんじんと痛む。
「…どうした?…私の形がそんなに戯けているか?」
兼続は笑いながら、案山子の様に両手を広げた。
この無邪気さが愛らしくもあり憎らしい。
「…示しがつかないだろう…早く洗ったらどうだい?…」
慶次は笑って、井戸を指した。
「そうだな、仕える者達もこんな殿は嫌であろうな」
兼続も笑い返して慶次に背を向けた。
その姿のなんと愛しい事だろう。
慶次は思わず、兼続。と呼び止める。
「…ん?」
兼続が振り返ると同時に景風が通り抜けた。
結い上げた黒髪がそよぎ、顔を覆わせた。
まるで俺には顔を見せないようにするかのようだ。
「…あんたの顔は白いから、よく落とした方が良い…」
兼続は目を瞬き、見え難そうにしながらも。
「あぁ、そうする」
と返事をした。
遠ざかる兼続を目で追いながらも、近寄る事は出来ない。
今触れてしまったら何を仕出来すかそれが怖かった。
手の傷がぴりっと痛み、また冷や汗をかいている事に気付いた。
「…憎いねぇ…」
掌を見詰め慶次はそれっきり喋らなかった。
謙信公がなのか、兼続がなのか。
通り抜けた風がなのか、自分自身になのか。
ふつふつと沸きあげる混沌としたどす黒い感情は慶次を蝕み始めていた。

 * * * 

それから、慶次は遊郭に行くことが多くなった。
妬心からくる憎悪に、夜通し堪えられなくなっていた。
金さえ落とせばどうにでも出来る。
慶次は最後の逃げ道に縋る思いで足を伸ばしていた。
郭では狂った様に女を求めた。
腎張と泣きながら見上げられた時。
流石に我に返ったが、ハッと自嘲して汚い言葉を吐いた。
「これが売女の勤めだろうが」
荒んでいくのが自分でも分かっていた。
でもここに通うのを止めてしまったら。
もう取返しのつかないことも分かっていた。