丹の秀
熱帯夜に駆られた。
空は茶墨を塗りたくったように、疎らに色を落としている。
星も見えない、咽返る様な夜だった。
眠れない、熱さが静まらない。
何度か寝返りをうったが、長い髪も熱を持つしどうも寝られる気がしない。
松風で早馬でもしようかと思った。
だが、それは己の暑さを増させるだけだと知りやめた。
しかしながら、やはり大人しく寝ても居られない、暑さ。
慶次は長襦袢で、ふらりと庵の外に出た。
行き先などは何処でもいい、寝苦しさから逃れたかった。
薄暗い夜道を歩くうちに、ふと京の都を思い出した。
あの、油の如くに纏わり付く汗、体がむず痒くなるような、湿り気の多い夜。
あやかしにでも、襲われそうだなんて、調子に乗って夜の街を闊歩してみたりしたものだ。
それに比べたら、ここの夏のなんと過ごしやすい事だろう。
…まぁ冬は例外だがね。
飛び越せるほどの小さな川を沿って、とぼとぼと歩いて気付かぬうちに辻にまで来ていた。
此処からどうしようかなどと考えている刹那。
女人の吐息のような、果敢無い風が首筋に吹いて、慶次はふと立ち止まる。
「…雪女なら今直ぐ閨にお誘いするんだが…」
慶次はその見てくれに大層驚きながら、笑った。
普段着込んでいて折り目正しい男が、己と同じような姿で、垂れ髪で歩いていたのだから。
「…生憎だが、雪でも無ければ女でもない」
小川のせせらぎが、何故か口数の少ないあんたの声を映えさせる。
「…このような夜半に、お供も付けず、危なっかしいじゃないか?」
瀞々と流れる水音が高まる。
その水面が、新月の中の僅かな光を集めて、光った。
「………無粋だな、夜這いは一人で行くものだろう?」
「……そちらさんこそ、朔に夜這いとは、横紙破りなことで」
あんたは少し考えた顔をして、そうだな。と苦笑い隣を行き過ぎた。
…可笑しなものだね。
その方角には、俺の庵しか…無いのにな…
俺は振り向いた。
闇のせいか、男か女かよく分からないあんたの後姿が、妙に艶かしい。
「…兼続」
呼んだ声に、後姿が引き攣った。
「………雪女だったなら、この懸想は報われたのか…」
熱さなんて忘れる程だった。
振り返ったあんたは、笑顔で泣いていた。
「……気が狂いそうな…位…暑い………夜よな……」
傍を逆走して逃げたあんたの袖を掴みかけて、握れなかった。
掴まえて何を言ってやれるのだろう。
闇夜に消えていったあんたを、途方に見ながら思う。
苦しい恋をしていると聞いた事があった。
好かれる当てもない、初めて落ちた恋だと、言っていた。
「…俺だったなんて………………」
足元に、小川の飛沫が飛び散ったのを感じた。
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