朱を奪う紫
蒸し暑くてどうしようもない夜中。
濡らした布で体を拭こうとも暑さが体から離れない。
我慢ならずに私は、外の井戸に向って水を浴びたのだが。
妙に苛立っていたのか加減を忘れ、首に掛けようとしていた水を頭から被ってしまった。
冷たくは感じられるようになったものの、やはり髪を乾かさずには寝られない。
兼続は弱ったと、髪を解いて屋敷の外に出た。
歩いていれば乾くかとも思ったし、幾ら寝苦しい夜だとしても歩けば多少風が頬に当たる。
そして人間とは面白いもので、体は勝手に川縁に近づいていた。
足元にささやかに流れる小川は、水飛沫で涼やかだ。
更に己とは不可解だ。
無意識に歩いているつもりだったのに、気が付けばそなたの庵に向っている。
それを思い知ったのは、もう少しで辻に差し掛かる場所でだった。
引き返そう。
私は身を翻した。
伝えても居ないが、求めても叶わないと分かってる恋慕。
気配等悟られてはいけないと思うし、己を苦しめるだけだとも知っていた。
だが私はもう一度踏みとどまって、そなたの庵の有る方角を見た。
隣の小川が、そなたの庵の傍を流れる小川が、光も無い夜なのに果敢無く煌いた。
姿を見ようとは、思うまい。まして話そうとも思うまい。
ただもう少しだけ傍に寄ってみたい、屋敷が見えるくらいまでなら…
私は何か悪さを仕出かすような気持ちで、辻を目指した。
逢う事も無いのに、何故だか顔が浮かんで口を押さえながら分岐に着いた、刹那。
「…雪女なら今直ぐ閨にお誘いするんだが…」
驚いた、そして背筋がかっと熱を帯びる。
息が出来なくなると同時に頭は冷静さを装う為に勝手に言葉を紡ぐ。
「…生憎だが、雪でも無ければ女でもない」
「…このような夜半に、お供も付けず、危なっかしいじゃないか?」
「………無粋だな、夜這いは一人で行くものだろう?」
「……そちらさんこそ、朔に夜這いとは、横紙破りなことで」
嗚呼、駄目だこれ以上話が出来ない。
唯でさえ不測の事態に、お呼びではないと突きつけられた現実。
それは分っていても、不振がられない行動をすることをさせてはくれない。
私は逃げるように前に歩くぐらいしか出来なかった。
それがどうして、己を貶めてしまうと知るだろう。
「…兼続」
慶次に呼ばれて、歩みを進めた足を呪った。
この方角には、この方角には、そなたの庵しか、無いの…だ…
「………雪女だったなら、この懸想は報われたのか…」
止めろ喋るな、これ以上、止めるんだ、私。
惨めに成るだけだと分っているだろう、止めろ止めろ止めろ!
「……気が狂いそうな…位…暑い………夜よな……」
深い夜の闇でも分るそなたの顔は、見開かれた瞳が驚きと真実を知って慄いていた。
まざまざと鮮明に、今夜一目と願った、そなた顔が。
私は夢中で駆け出した。
もう終わったのだと思った、もう一時もそなたの前で晒し者になるのは耐えられなかった。
屋敷の傍まで走って、その場にしゃがんだ。
息が苦しくて、泣いている事に気付いて、浅はかな言動を憎んだ。
「……この馬鹿野郎………っ」
月も星も無い夜、傍を流れる小川が静かに私の言葉を飲み込んだ。
終