crystal clear









慶次はこれ以上無い程、松風の腹に鐙を蹴り付けて国境に急いでいた。
土砂降りの雨の中の早馬は、身に槍が刺さるように痛い。
秋の暮れ、米沢に降る雨はいつ霙が混じってもおかしくない位凍て付いて芯を冷やす。
時刻も常ならば日が沈んだ頃。
水墨画の世界が目前に広がって、大粒の雨がそれを靄にでも覆われたように白ませる。
「…兼続…!」
慶次は視界が悪い中で必死で目を凝らし、遥か彼方の国境を見る。
兼続が米沢に入る前に会えなければ。なんとしてでも、会わなければ。
「松風っ後生だ!後生だから…!」
どうか、間に合わせてくれ。

 * * * *

 crystal clear

 * * * *

三日月が庭の松に掛かり、風に靡く椛の音と涼やかな虫の音。
秋も深まり、鹿の鳴き声さえも侘しいと感じる。
そんな、物悲しい夜だった。
なんとなく兼続が来るような気がした。
「……果報…だと良いんだがねぇ…」
貧窮している米沢で、いかに遣り繰りしようかと奔走している兼続。
俺を訪れるのは稀だったし、俺から尋ねるなんてのはまず考えなかった。
だから、月に何度か会えたら良い方。
それでも俺は十分満たされていたし、兼続もまた幸せそうだった。
どんなに遠くに居ても心は傍に居る。
寧ろ、遠ければ遠いほど思いを馳せあって互いを思いやれる。
そんな風に割切っていた。
だから、部屋の障子を引きざま。
倒れるように兼続が縋って来た時は、何事かと驚きを隠せなかった。
咄嗟に壊れないように受け止めてやると、胸に顔を埋めて慶次…と俺の名を呼んだ。
「…来る様な気は、してたんだ…」
抱き留めてやった体を包み、優しく呟く。
いつもなら夜だとは思えない程のはきはきした明瞭な声で。
「見透かされているな…慶次はやはり只者ではない」
とか言って顔を上げて満更じゃない笑顔で笑うのに。
まるで有明の月が消えたくないと訴えるように。
「…契りたい…」
と、兼続はそうだけ言って更に胸板に顔を押し付けた。
腰に回した腕が手が、着物の後ろ身頃をきゅっと掴んだ。
珍しいこともあるものだ。
慶次は面妖だと思いながら、何かに怯えて居るかのような兼続の頭を撫でた。
「…怖い夢でも、見たのかい…?」
しかも心の繋がりに重きを置いている兼続が、俺を求めた事など今まで一度も無かった。
それは例えば、婉曲的にでさえ言われたことは無かった。
だから俺を欲しいと思ってくれることは嬉しい。
だが、その呟かれた言葉の片隅には何か諦めのような。
焦りのような物が見え隠れしていた気がしたのは何故だろう。
「………あぁ、…とても恐ろしい…夢だと、思いたい……」
切羽詰った切ない声音はもうそれ以上の言葉を紡ぐ事を拒んでいた。
「…夢魘を祓ってやるよ…」
慶次は耳元で囁き兼続の背中を擦りながら額に口付けた。
結い上げた黒髪の髪紐を引き解きながら、薄っすら目を開けた兼続と視線を絡める。
唇同士が触れ合い早急に深さを増す口付け。
二人は足からその場に崩れた。
兼続が快楽に堪える姿。
涼しい横顔を汗に濡らしてふっくらとした唇を軽く噛んで。
時折ぶつかる視線が胸が苦しいくなるくらいに潤む。
でもいつもとは一つだけ違う事があった。
意識が飛びそうになるのが自分でも分かるのか、その度に途切れ途切れに俺に言う兼続。
「……駄目…だっ、慶…駄目…」
まるで意識が飛ぶのを恐れる様に、兼続は俺の顔に触れながら乞い願った。
「大丈夫だっ…俺だから…な?…兼続…」
揺れながらまた何かを言おうとした兼続の口を、慶次は揺らしながら吸った。
行為が終わった後に二人で入った褥で慶次は兼続の頬を撫でながら呟いた。
「…怖くないだろう?もう…」
慶次は兼続の頬に接吻して、それから優しく笑う。
「…俺は必ず、ここに居るから…いつでも……」
いつでも来て俺に悩みの一つでも相談して欲しい。
こんなになるまで来れない位忙しいのは分かっているが。
それでも慶次は腕の中の兼続を安心させるため、努めて明るく莞爾した。
唯でさえ薄い月明かりが、障子を過ぎることは無い。
でも慶次の人懐っこい破顔に兼続は、噛み締めるように頷いた。
「…あぁ、絶対だ。……もぅ寝ないか?」
体が休息を求めているよ、と兼続が笑い返した。
慶次はいつも通りに腕枕に兼続の頭を預けさせる。
程無く、久しく満たされなかった心を恋仲に満たしてもらったせいか。
慶次は兼続の肩を抱きながら、夢路を行き始めた。

 * * * 

何時も必ず、兼続と一緒に寝た朝は腕の微かな痙攣で目を覚ます。
こんな硬い腕でも腕枕で寝たいと、兼続がいつか頬を染めて恥かしげに言ったから。
俺の腕なら幾らでもと。そうして始まった腕枕。
だが今日は、障子に透かされた柔らかい朝日で目が覚めた。
腕に抱いて寝た兼続は今まで一度だって、寝相が悪いなどで俺の腕から居なくなったことは無かった。
「…兼続……?」
昨日兼続が居たはずの場所は暖かさはおろか、人が居た形跡まで無くなっている。
慶次は不思議に思い体を起こして、部屋を見回した。
「あれは…」
入り口の障子に近寄り、落ちている髪紐を拾う。
「…珍しいなぁ、兼続が忘れもんなんて…」
濃藍で色気なんてのはまるでないが、まさしくそれは兼続の物。
兼続は物持ちが良いのか、随分と草臥れているその髪紐。
「………」
何故か、その時に。
俺の六感がけたたましい程の警鐘を鳴らした。

 * * *