已己巳己










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そうなると、兼続は儂の所には来なくなる。
勿論公私混合するような浅い男ではない、が、私で尋ねてくることは減った。
儂はまた本を読み出した、下手ながら歌も詠い、手持ちの舞いも鍛錬をして増やしていった。
比べられる者の居らぬ事の、幸せとでも言おうか。
儂は今がとても幸せで成らなかった。
そのような折だ。
助次郎が小姓として儂に付くようになったのは。
だが話が持ち上がった最初は、気が乗らなかった。
どうして美男子らしく、頭も切れるらしいのだ。
見目が麗しく気が利いて、明晰なのに越した事はない。
しかし余りに完璧過ぎた小姓を幼年に持った儂は、その光が突き刺さるようで痛かった。
それがまたかと思うとどうしても考えてしまうのだ。
そう考えていたのに。
助次郎が部屋に入り伏せた顔を見たとき。
儂は恋に落ちた。
静まり返った板間に、柔らかな春の日差ざしが差し込んだ。
まろやかな明るさは何もかもを押し遣る刺々しさがない。
儚ささえ感じるその眼差し、風に吹かれる柳のように嫋やかで控えめな光。
人は自分と同等若しくはそれ以上の光を感じることは出来る。
言い換えれば、己より弱き光は己が掻き消してしまい、分ってやる事は出来ない。
似ている、と思った。
心の底から、渇望していたものが目の前に現れたと思った。
お前もそう思ったに違いなかった。
だから、面を上げたときに、目を見開いたのだろう?
この光は、儂にしか分ってやれぬと思った。

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その日を境に、儂は助次郎を寵愛した。
感覚がよく似ていたのだろう、好む歌は似通っていた。
性格もあろうが、言葉数も少なく下手をすれば曖昧とさえ言われそうな優しいところは。
無口で癇の強いと言われる儂の心を逆撫でせず、心地が良かった。
のめり込んだ、強く強く。
もう片時も傍から離れさせたくなかった。
それを知ってか知らずか。
「…小姓は一人ではありませぬ、どうかもう少し…」
ある評定の済んだ後。
兼続は忠言を寄越した。
お前はお前等で宜しくやっていればいいのだ、余計な世話だ。
そう思ったが、言わない。
兼続は続ける。
「…私も小姓だった故に、分かります、つまらぬいざこざで失っては遅うござります…」
…失う?助次郎を?
誰が奪うのだ、助次郎を。
いつも必ず傍につけているのにそれでも何かあるというのか?
不意な助言に、不安と苛立ちが混濁し胸中を蝕む。
「さすれば、助次郎を…」
その刹那、景勝は兼続を睨み怒声を張り上げる。
「言葉が過ぎるぞ、直江山城っ!」
兼続は目を丸め、動きを固めた。
景勝は何も言わず、その場を立ち去り、隣の部屋で待たせていた助次郎を連れて自室に戻った。
部屋に入りざま、何も言わずに助次郎を痛がるほどに抱き締めた。
嫉妬が抑えられない。
兼続が助次郎の名を呼んだだけ。
それだけなのに、それですら許せない。
万一にでも兼続が助次郎をそのようには見てないことは知っていたにも拘らず。
助次郎は無言のまま、景勝の背に手を回してしがみ付いた。
このまま二つが一つになってしまえば良いとさえ思った。

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言われてから儂の助次郎に対する独占欲は日に日に増した。
とはいえ、兼続の言い分も理解できる。
どうかなってからでは遅い、それは衆道の痴情の縺れの話だ。
兼続も儂に隠れて泣いていたのが一度や二度ではなかった事を思い出した。
「…助次郎、少し暇を取れ…」
この一言を発するのにどれだけ苦渋を呑んだだろう。
晩酌をさせていた手が、小刻みに動いた。
盃に当たっている徳利の注ぎ口がカタカタと音を立てる。
「………………畏まりましてございます」
発した声は、か細く聞き取りづらい。
暫くは会えぬのに、最後に聞いた声がこれなのかと思うと胸が軋む。
助次郎はそのまま徳利を床に置き、深く頭を下げて一瞥もせずに立ち上がった。
行かせとうない、行かせとうない…
「助次郎」
呼び止めてしまった。
景勝は立ち上がり、障子付近の助次郎を後ろから抱き締めた。
はらはらと、助次郎の頬を伝い落ちる泪が景勝の腕に筋を作る。
「…後生です…どうかまた、お傍に置いて下さい…」
「…当たり前だっ」
景勝は目に涙を浮かべながら、助次郎の口を吸った。

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それからは悶々とした日々が続いた。
いつも侍らしていた場所には、助次郎に似ても似つかぬ新米が座している。
強張った顔で頑なに指示を待っている。
己が望んだ事なのに、これ程辛いとは思いもせなんだ。
部屋のあちらこちらにあった、助次郎の痕跡が段々と消されていく。
歩く時の畳を擦る音、障子を引く速度、茶の味、熱さまでも。
そうして、己が頭から足の先まで、助次郎で充たされていた事に気付く。
改めて気付いて、だがそれ故に積もる恋しさ。
自ら遠ざけたのに、恨めしい。
「…助…」
お前の運ばぬ茶の、なんと味気の無い事か。
お前が運んでくれるなら、泥水でさえ甘露と化すであろうに。
「…殿…?」
今の儂には姦しい女の声以上に煩わしい声が、美味しくも無い茶の味を舌にこびり付かせる。
「…何か仰いましたか?」
景勝は微かに俯いた。
「…いや……………」
障子の外は桜が盛りを過ぎ、ただ散り急ぐ。