已己巳己










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そして葉桜と成った桜の木が、夜の嵐に梢を鳴らしていた日。
篝火も焚かず、明かりも灯さず。
小姓も人払いし景勝は庭に降りて、あまり朧でもなくなった月を眺めていた。
庭に降り敷いた桜の花弁は其の侭にさせていた。
踏みしめたりさえしなければ、花弁に降る桜蘂も乙だ。
…兼続は儂にああ言及してから、何も言わなくなった。
評定時には場を取り仕切り、相変らずな弁を振るうが、それだけだ。
いつか、詫びねばならぬと思う。
離れた幾日かは助次郎が頭からはなれなんだ。
だが、居ない事に慣れてしまう己もおり、そんな自分に絶望しながらも見えてきたものがあった。
それが家臣等の囁き。
己で自覚が有るほどに大事に思っていたのだ。
他人が見て、其れを感じないわけが無いのだろう。
あわや玄宗が傾城に溺れるが如くとまで言われていたらしい。
もう少しでも離れるのが遅ければ、助次郎に毒でも盛られていたかと思うと気が気でならない。
…今お前は何をしているのだろうか。
景勝は月を眺めていた瞳を伏せる。
助次郎よ儂はお前に思いを馳せている。
お前は…
「と…の…」
はっと目を開け、声のするほうへ振り向く。
幻聴かと思う程の小さき声だが、聞き間違うなどあるはずも無い。
気が付けば月の影になっている屋敷の側面に走り寄っていた。
そこには眼に一杯の泪を貯めて儂を見上げるお前が居た。
「何も言うな」
月明かりにさえ隠すように景勝は助次郎を抱き締めた。
声にならない声で、済みませぬ、申し訳ありませぬ、許してくださいと訴える。
必死でしがみ付く腕の中のお前。
「何も言うでないっ…!」
体中から、愛しさと切なさが噴出してしまいそうだった。

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屋敷の中で、抱いて寄せてそれでも月明かりに隠し切れぬお前。
同じ明るさゆえに紛らわせてやれても、隠してやれぬ儂。
もどかしい、一国一城の主なのにも関わらず愛しい男一人も満足に満たしてやれない。
「…儂が…憎いか…」
憎いのは自分自身にであった。
だがその口から、違うという言葉を聞きたくて、無様にも呟く。
背中から掻き寄せた細い肩が緩やかに横に振れる。
「…憎い等の醜き感情は、貴方様より教わってはおりませぬから…」
愛おしい、世知辛い、離したくない、守りたい。
戸惑いさえ感じられるほどの感情が溢れて、もうお前しか要らないと思った。
乱れ髪に頬を寄せ、柔い肌に泪を落す。
「…止めをさして下さい…」
もう貴方様の御側を離れる事堪えられませぬ…!
それは、花のように可憐なお前が声を荒げた最初で最後の言葉。
景勝はその言葉を殺すように助次郎を組み敷き、何度も愛でた肌に跡を残した。

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「今、月も憎かったあの晩を思っておった…」
助次郎の見上げた視線を感じて視線を絡める。
一年前の柔いばかりのお前の顔、それが今は少しだけ精悍さが滲む優い顔になっていた。
儂は遺言を考えるようになった。
お前を愛するに、この世は生き難いからだ。
「助次郎、頷いてくれると信じている」
景勝は抱き締めながら、来世も契りたいと言った。
だから己と同じ導師から引導を受けて欲しいと言った。
霞が和らげた日光が風に攫われる桜を追いかける。
床には影が舞い踊り、お前の瞳が見開かれる。
来世がどのようなものかは想像が付かん。
だが、出来るなら身分が同等であればいい、若しくはなければいい。
そして叶うなら齢を近く生まれ変わってみたい。
お前と同じ目線に立って、お前と同じ物を眺め、愛しむことができたなら。
助次郎は小さく頷き、諸共に。と儂を抱き締め返した。
いつか再び巡り会えたら。
こんな桜の舞う暖かな場所で、儂はお前を必ず胸に抱けると確信した。
程無くお前は、長範と名を改め水も滴るような武将となった。
春が、過ぎる。
若葉が生い茂る眩しい夏が目前に迫っていた。