峻悄 瑠璃帛










 * * * 

「あら、三成さん遅かったじゃありません?」
養母は見目の落ち着く短髪に髪飾りをつけていて、普段より一段と幼く見えた。
「母上こそ、このようなお時間から若作りをして何処に行かれます?」
帰るやいなや、門前に馬車が停まり俄かに騒がしい玄関を見て大体の予想はついていた。
だが、今日はその忙しさは好都合だった。
帰宅が遅かったのを有耶無耶と出来るからだ。
玄関先で舞踏服に身を包んだ養母は、俺の額にこつんと拳骨を食らわせた。
「舞踏会です、鷺鳴館に行ってまいりますわ」
その時。
「おぉ、三成。」
燕尾服に身を包んだ養父が現れる。
「おまんも、時機に連れて行かねばだが…はて、何色の」
養父は言いながら、愛妻に目を向けてまた戻す。
「深紅の薔薇色なんてどうじゃろう?」
養父は時折、俺が気にして居るのを知っていて俺の女顔を詰る。
「…燕尾服を着とう御座います。」
三成は失礼と頭を下げ、夫婦の前から逃げた。
育てて貰った恩はあるのだが、どうしてこう馴染めない。
あの温かさをどうして素直に受け止められない自分が、嫌いだった。
自室に戻った三成は、お稽古の復習を兼ねて舞扇を広げた。
何故か何もかもを忘れてしまいたい衝動に駆られる。
夢中で三味線の音を脳裏に蘇らせる。
ゆっくりと腰を落として、足を滑らせた。
唯でさえ静かな部屋の空気を凍らせる。
袖を直す様に振り払いながら身を返しながら三成は眸を閉じる。
…この世のあらゆる柵から抜け出して…
どこか…そう誰も居ない己だけの場所を、俺は探している。
「花の夕べの…移り香もれて…空の知られぬ……」
三成は懐からもう一面扇を取り出し二枚扇で舞い始める。
長唄を口ずさみ、己の世界に入りきろうとする。
狂乱…そう、これは狂乱物だ。
一心不乱に誰かを思う男は、女とは違う嫉妬に塗れて狂わねばならない。
扇の天で空気を切る、親骨で薙ぐ。
ようやく己が見も知らぬ女への執着心に気付き始めた刹那。
指先が引き攣り、扇が床に舞い落ちた。
途端にまた、見慣れた部屋の概観が俺を現に引き戻す。
「…俺としたことが…」
どうしたのだろうか。
こんなに舞い慣れた演舞で、扇を落すなどと。
開いたままの扇面を眺めながら三成は呟いた。
偶々だと、すぐ扇を拾ったが、三成は其の侭扇を閉じた。
何故かは分からない。
だが、きっと。
今日はもう幾ら舞っても、空しく扇が床に落ちるような気がした。