峻悄 瑠璃帛










 * * * 

日々追い詰められる息苦しさは、溺れるより辛かった。
何度、今逃げよう、逃げようと思っただろう。
あれから毎日来る見張りの様な男。
変な動きでもしようものなら、何時でも命を頂けるんだと、喉元に刃物があるような感覚。
だんだん自分が、途轍もなく悪いことをしたような気がしてくる。
しかし、逃げてどうする。俺に生きる術があるか?
これからずっと日陰で暮らすようになる事は分りきっている、もしかしなくても人並みになんて生きられない。
そこまでして生きる必要があるのか?
砂嵐しか流れないラジオを切って、蓄音機のレコードをかけた。
グリーンスリーブスの音色が、いとも果敢無げに身をすり減らしながら流れる。
「…いつかお払い箱に成るために、啼くなんて洒落てるじゃないですか…」
それは己を己で痛めつけるには十分すぎた言葉。
「…いつか死ぬために生きてるなんて、気付かなければ良い物を…」
左近は蓄音機の針を、ゆっくりと押さえつけた。
段々力を入れると、レコードが歪な溝を作って悲鳴を上げはじめる。
針が拉げるのと、レコードが割れるのは、同時だった。
「…左近さん…」
部屋の音が消えて幾許もしないだろう。
泣き黒子の女が何時もと同じように、音も立てずドアを開けて入ってきた。
施錠の落ちる音だけが、この店を支配する。
夫人はその細い体を震わせ、倒れるように俺に縋った。
「…あれから、ずっと逢いたかった。こんなに思ったことは無かったわ」
左近は初めてその女を違った意味で客観的に見ることが出来た。
女は俺との仲が露見して、仲を引き裂かれることを案じているのではない。
手袋をはめた指が俺を必死に掴んでいるのは。
今にも狂いそうに見上げているのは。
己の立場が無くなる事を、亭主にばれてしまうことを恐れているからに他ならない。
この女に、好いた惚れたの類を求めていたわけではない。
だが男女の仲とはなんと果敢無いものだろうか。
色欲とは、刹那の快楽を求めて貪り合うだけの、性。
結局可愛いのは、一番可愛いのは、自分だったって事だよな。
何か叫んでいる夫人の口調が、荒くなっていく。
あなたのせい、なんて言葉よく吐けると思う。
惚れたと色仕掛けをしてきたのは、誰だっただろうな。
…だれか言ってたよな、惚れた方が負けだって。
なのに何故だろうね、惚れられた俺が、貧乏くじを引いた様なもんだ。
どうなるのかなんて知ったことじゃない、あんたの旦那があんたに三行半を渡すだけだろうが。
ああ、五月蝿い五月蝿い、いっそ殺せよ。