峻悄 瑠璃帛









「何を仰るの…、嫌よ、何を為さるのっ」
カウンターの包丁を持ち左近は、夫人に近づいた。
「…助けてあげますよ、俺が死んだら、貴女との仲だって、もう引っ掻き回すことできません。」
震える夫人を壁まで追い詰めて、その男が耳元で何かを囁くと、女の目が爛と輝いた。
たどたどしく包丁の柄を握る夫人は、何かが乗り移ったように色情を纏った。
男の手が、壁に両手を突き、双眸を細める。
女が堪らず、目を瞑り唇を差し出した。
「勘違いするなよ阿婆擦れ女。腰振って喘いで貞淑面してんじゃねぇよ。」
再び見開いた女の瞳は、何を言われたのか理解できていない。
それが段々、口惜しさが滲んで憎しみの篭った瞳の色に変わる。
「まさか一緒に逃げようなんて言葉を期待してたのか?馬鹿も休み休み言えよ。」
あぁ、ああぁ…と、憎悪に口が震えている女に更に捲くし立てる。
「一時だけでも愛される夢を見られて良かったじゃないか。」
刹那、聞くのも苦しい女の叫び声と共に、男が目の前から飛び退いた。
「うわぁああああぁあっ!!!!」
夫人は包丁を振り回し、男は真顔で其れをかわす。
しかし、何を思ったか男は笑顔を湛え、唐突に足を止めた。
刺さるなんて、思ったときにはもう総て済んでいる物で。
真っ白いシャツが、赤を吸い込んでいく。
夫人は何度か刺して、刺し難いと感じたのだろう。
倒れている男に馬乗りになって、血塗れの包丁を逆手に持ち直し振り上げた。
「松平の奥方!御見苦しいにも程があろう!!」
三成は当初の目的を忘れて叫んでいた。
己がたった今、しようとしていた事を目の当たりにし、叫ばずには居られなかった。
護身用の刀を握ったまま、カウンターを抜けて店内に躍り出る。
善悪の判断以前の問題だった、体が勝手に動いていた。
包丁を振り上げたまま見上げてきた夫人の顔は鬼の如き形相。
涙を流しているが、それは最後の人間らしさと言おうか。だがもう、人にあって人にあらず。
夫人は三成の手に握られている刀を見るなり、立ち上がりその包丁を三成に刺さる様に投げた。
三成はその包丁を咄嗟に刀で弾くと、時を置かずして鋭利な刃物が木床に刺さる音がした。
女は振り乱れながら、虚ろな瞳で俺を睨んだ。
「物狂いめ…」
三成は眉を顰めて刀を構える。
血塗れの女は、途端に別人の様に駆けて、裏口蹴破り出て行った。