峻悄 瑠璃帛









逃げろ、逃げろ!
必死に足を引けば足元の屑篭を蹴ってしまい、一層音を立てる。
転びそうになって、慌てて台所に手を掛けたらそのまま均衡を崩した。
思うように足も手も動かない。
急いで体を起こして、客席へと抜ける戸を押した。
外光が消えてあの男が店の中に入ったことは解ったが、それ以上を理解する事は出来なかった。
早く開いてくれ、どうやったら此処の鍵が開くんだ。
三成は表通りに面しているドアを開けようとした。
だがドアを閉ざしているのは簡素な錠の筈なのに、上手くあける事が出来ない。
逃げる事で頭が一杯で手元が覚束無い。
「…何処に行く気なんだ?」
厨房側から、ぞっとする程低い声で、あの男は言った。
コツコツと男の足音が近づく。
三成は間合いが無くなると、ドアを開けるの諦めて客席の奥に逃げた。
背丈も体もある男だ、間合いを詰められたら終わりである。
「…俺に触れるなっ…!」
「……貴方が悪いんですよ」
途端、左近は三成への間合いを詰めて腕を掴もうとする。
三成は其れを見切って、体を捌いた。
よし、逃げれる!
勢いづいて三成が走り出そうとした瞬間だった。
左近は受け流された右腕を其の侭に、左に一度回った。
そして左足で駆け出そうとしている三成の足を攫った。
「…逃げられると思うなよ」
足を掛けられ、転んでしまった三成に左近は呟きながら胸倉を掴んで引き上げる。
駄目だ、敵わない。
胸を掴んで引き上げた力が、尋常ではなかった。
三成は観念して、歯を食い縛り抗う事をやめた。
最後の最後にまで無様に悪足掻くのは、助けてくれと縋るのは。
俺の理念に反する。
殴られるのか、蹴られるのか。最低骨でも折られるのか。
想定できる範囲内で、これから起こり得る痛みに堪えようと思った。
「…舌でも抜くが良い」
睨み付けた刹那。
地から足が浮いて、口を塞がれた。
胸倉を掴んでいた手は背に回り、片腕が襟足を掴むように固定される。
顔が驚くほどに近い、目睫に鋭い傷跡が見える。
俺は、俺は。
それは到底想定出来なかった。
「んっ…!!?……っ」
口を吸われている?
左近は三成が状況を理解した具合に、腕の束縛を緩め床に落とした。
三成はへたり込み大きく目を見開くと、体中から得体の知れぬ汗を流していた。
「………今日のことを他言するようなら…覚悟をしておくんだな…」
足音が遠のいて、勝手口が開く音がした。
三成は起きた事が理解できるにつれ、頭に爪を立てて掻き毟る。
こんなこと、有っていいものか。
こんなこと、有っていいものかっ!
男に口を奪われたなどと、辱められそうになったなどと。
有ってはならない何よりの恥辱。