峻悄 玻璃帛










 * * * 

憎たらしい叔父貴のあの面を拝まなきゃ成らないのかと思うと、馬車に乗りながら吐き気がした。
だが俺が機嫌が悪そうでも、目の前に座っている上杉の当主は何も言わなかった。
寧ろ俺よりも大分機嫌が悪そうだ。
そうそう、こんな滑稽じみた催し物、この御仁は確か大嫌いだった。
「…慶次。…何時まで屯するつもりだ?」
偶々視線を上げたら、ずっと見られていたのかもしれない。
当主と目が合った。
「…お言葉ですが、引き止めているのはうちの叔父貴と貴公ですよ」
流れる景色が段々と西洋の派手な町並みを彷彿とさせ始める。
上杉の当主は黙ったまま白の手袋を付け始める。
「…我も一度だけだが、この世界が嫌になり数ヶ月放浪したことがある。」
慶次は目を見張った。そんな事実は知らなかった。
こんな厳粛主義の塊のような男が、放浪?
謙信は土煙で視界が悪い外を眺めて続ける。
「…だが、我は何時の間にやら革新華族と呼ばれる先駆者になっていた。他家の没落の轍を踏んではならぬと事業を展開するうちにな…」
ふっと、息遣いだけで上杉の当主が笑った。
「…何時の間にやら抱えているのは己の身一つでは無くなっていたのだ…」
哀愁と言えばいいのだろうか。
その眼差しは虚空を眺めて泣いている様に感じられた。
「慶次よ、何を捨てて何を選ぶのかは己次第。我は自我を殺した。」
何故今、なのだろう。そんなことを言うのが。
慶次はポケットに突っ込んであった手袋を出しながら思案する。
まさか…
慶次が己の都合の良い考えに至った刹那、馬の鳴き声が聞こえて外の景色が緩やかになる。
見上げた瞳の先には、夜の闇とも影の暗さとも言えぬ黒さの中で、微かに微笑んだ上杉の当主が居た。
馬の蹄がやがて石を蹴りだし、外には優美と野望が渦巻く鷺鳴館の明かりが洩れる。
「…もう余り時間が無い、我は…お前を気に入らぬなら、敷居さえ跨がせなんだことだけ覚えておけ…」
俺がどうして、上杉家に預けられる事となって逃げなかったのかを改めて思い知った。
心の何処か計り知れぬところで、烏滸がましくも己と似ている物を当主に感じてたんだ。
多分俺は、此処以外の家に押し込められたなら次の日には行方を眩ませてたに違いない。
前田家なんてのは心底どうでもいいが、この家には迷惑を掛けたくなかったし、この御仁なら分ってくれると思った。
そして実際、この御仁は分ってくれていた。
分った上でなお、俺に、己が成し得なかった事をして欲しいのだと、言った。
「…二年もの長きに亘り、面倒を見て下すって、畏敬の念しか浮かびません。深い恩義を頂戴したこと終ぞ忘れませぬ。」
慶次は深く深く頭を下げて礼を言った。
程無くして、到着しましたと馬車の戸が開き、案内人が甲斐甲斐しくこちらへどうぞと笑顔を見せた。
時間が無い…その言葉を司るかの如く、馬車を降りると目と鼻の先に見慣れた夫婦の礼服姿が飛び込んだ。