峻悄 玻璃帛










 * * * 

今日は何時もより早く慶兄が帰って行ったな。
そんなことを考えて、そう言えば今日は舞踏会があったことを思い出した。
養父のぶっきら棒な顔が一段と厳しくなってそうだと思う。
兼続は養父の顔を思い出して口元を仄かに緩ませたあと、さて手習いでもと片付けてあった硯を出した時。
自室の扉を叩かれる音がした。
「はい」
兼続は近寄って扉を開ける。
そこには燕尾服に身を包んだ慶兄の姿があった。
「兄さん…?」
「椿油を貸してくれないかね?途中で切れちまって」
兼続の胸が高鳴った。
所謂、嫌な予感と言うやつだった。
「わ…分かりました、少し待ってくださいね…」
椿油を手渡した兼続は慶次の顔を見詰めた。
慶次はその視線に気付く。
「…何、泣きそうな顔をしてるんだい?」
「…気のせいです、慶兄…」
ならいい。とそう言って扉を閉めた慶次を兼続は暫く其の侭で眺めていた。
そして再び扉を叩かれて、侍女に養父が出立するので玄関にと言われた。
階段を降りて、玄関先で待っていると養父が思ったとおりの顔でシルクハットを片手に燕尾服で現れる。
そしてその後を、金糸を小奇麗に束ねて少しだけ面倒臭そうな慶兄が現れた。
「景勝、兼続…努々…否、何でも無い…」
養父は多分、自分が居なくても勉強しなさいと言いたかったのであろう。
だが、もう適切では無いだろうとも思ったのだと思う。
シルクハットを被り玄関を抜けて行った。
続いて本当に気だるそうに慶兄が玄関を抜けて行った。
多分、会うのであろう。
前田公…他面々に。
慶兄の背中は、この屋敷の狭い一室に居る時より外に出たときの方が小さく感じる時がある。
大抵が、身内に会う時だと悟るのにも時間は掛からなかった。
きっと慶兄は社交会では生きていけない人種なのだ。
幾ら人目を引く華やかさがあっても。
その奥に潜む気侭という名の獣は、こんな世界じゃ生きていけないと訴えているんだ…
「…兼続、何時まで立って居る?」
とん、と二の腕に触れられ兼続は我に返った。
「澄みませぬ、呆けておりました…」
景勝は済ました顔で、小さく。
「面」
と言って、兼続の額を人差し指で触れる。
「…隙だらけぞ」
だが其れが決して咎めている類ではない事は、長年の兄弟のように育った間柄故に分かっている。
「…心配せずとも、養父も…前田の兄者も戻ってくる」
景勝がそう言って自室に戻りだしたので、兼続もそれに続いた。
ほんの少しだが、後ろ髪を引かれた気がした。
だが今振り返っても、きっと養父も慶兄も門前には居ないはずだった。