峻悄 玻璃帛









「邪魔するよ」
兼続は襟を直して、叩かれたドアに近寄りドアを開ける。
「…慶兄は、いっつも私が帰ってきたら、ピアノを弾くのを止めますね。」
慶次を見上げて兼続は前置き無く言う。
「…おや、ご挨拶だねぇ、お帰り」
少し驚いてみせたふうだが、きっと慶兄は驚いてなんて居ないはずだった。
なんたって、手に持っている教材だって、もう片手に持っているお盆だって。
その中身の紅茶だって微動だにしてないから。
「言っとくけど、俺は兼続の先公役で食わして貰ってる大変肩身の狭い昼行灯なんだわ」
とか大層自分を卑下しているが、そう言って笑った顔は陰なんて無くて楽しそうで。
「…じゃぁ、慶次先生、早速教えてください。」
兼続が見上げて笑ったら、慶次はとりあえず部屋に入れてくれとまた笑い返した。
そう、慶次から勉学を教えて貰うこの二時間余りが、兼続の一番充たされる時間だった。
何時からこの関係になったのか、それは今でもよく覚えている。
私が十三の時、慶兄は確か三十三で突然この家にやってきた。
養父は、交流が深くまた事業提携している間柄でもある前田家の当主にどうやら慶兄の事を相談されていたようだった。
そして、何も前触れも無く諸国を放浪として帰ってきた慶兄を今とぞばかりに上杉に預けたらしい。
養父も養父で、頼まれたら断れない性格も手伝ってか其れを了承したらしかった。
が、適当な役目が見つからなかったらしく、気が付けば私の指南役という形でこの家に納まるようになった。
「…慶兄、今日は琉球王国の話を聞かせてくれるんですよね?」
だが、実際は土産話を聞かせてもらうだけの時間と化していた。
だからこそ楽しいのだし、だからこそ心待ちにしているのだ。
「そうだったねぇ…あ、豚の耳食った事無いだろう?あれはね…」
きっと、前田公の目論見は外れてしまったように思う。
もう二年もの歳月が流れたのに、未だに慶兄の放浪記を語る時のなんと生き生きしていること。
多分、また前田家に戻る時分にはふらりと姿を眩ますに違いない。
「…そのような説明では理解できかねます。食べてみたい…」
「いやぁ、黒い豚ってのは…この界隈には居ないんじゃないかねぇ…」
私の齢も十五となり、養父は予々私に勉学とは己で励む物だと教えてきたことも実践できる年頃となった。
それゆえに、いつ慶兄がこの家を出ても不思議ではない。
そもそも預けられた理由からして明確ではない時点でもそれは明らかな事だった。
「あぁ、そういえばチュラカーギーとかなんとか言ってなかった…か…な?」
だから、明日には終わりそうなこの関係を少しでも覚えておきたい。
楽しい思い出と言うのは、存外心に深く刻まれるものだから。
「…そうそう、兼続の事だよ」
慶次は笑いながら、兼続の頭を撫でた。