慶次は座っていた椅子を緩やかに立ち、部屋のドアを開けた。
ピアノも弾いていない俺が、廊下の声を知らぬ存ぜぬで通る訳もなかったから。
「子供の喧嘩に親が口出すのはどうかと思うんだけどなぁ」
冗談交じりに二人に近づく。次期当主が俺を見上げて言った。
「…慶次の兄者、兼続を助けてやってください。」
「………え?」
突如、景勝が手を掛けていた双肩が震え出し、兼続の顔色が変わった。
その顔色に慶次は、手を伸ばしていた。
兼続が景勝を突き飛ばしているとか、弾みで階段に落ちかけているとかではない。
それより先に、反射的に、俺は腕を掴もうとしていた。
あわよくば抱き締めてしまおうとさえ思っていた。
「…っ、危ねぇ……」
掴んだ細い腕が思いの外重く感じて、初めて兼続の後ろが階段であり、ずり落ちる形になっていた事を知った。
宙を泳いでいた纏めた黒髪が、肩に弾かれ背に滑る。
兼続は声変わり前のか細い声で、怯えるように放して下さいと言った。
紫黒の学生服の胸のあたりに雫が落ちる、更に弾かれてそれはころころと玉を小さくしながら絨毯に落ちた。
慶次は我を忘れた。
否、出会えはしまいと諦めて殺していた思いがあった。
この世界で生きるために塗り固めた自分、薄い膜にでも口を塞がれ息も絶え絶えに生きてきた自分。
それを、目の前の少年が壊した、救ってくれた気がした。
抱き寄せ胸に沈めた刹那に、小さく、ぁ…と洩れた兼続の声。
今分った。
どうして熱の出たあの日に、行かないでと縋る兼続を俺はあやしたのか。
打算なんかでは到底できっこない、純粋な思いだった。
必要としていたんだ、この俺を。
そして今、放せと言いながらその瞳は涙ながらに、もう一度この俺が欲しいと言った。
熱に浮かされ、生れを誇り、体裁ばかりを気にして。
選ばれた人間しか映さないように育てられてきたその瞳が。
こんな狭い世界なんぞと見限って、この世界から逸れた、ただの疎まれた駒でしかない俺を。
求めて泣いたのだ。
「…兄さんは…」
兼続が、俺のシャツを握りながら、神か仏に話しかけた。
「……どうして、慶次兄さんは、女では無いのですか……どうしてこんなに…歳が離れて居るんですか……」
その丹花の唇が発する事を許されない、禁忌の言葉を吐く。
「…どうして、懸想してはいけないのなら…こんな思いをさせるのですか…」
慶次は抱き締めたまま目を見開いた。
「兄さんが女人なら…逃げてでも…添い遂げるのに……」
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