峻悄 玻璃帛










 * * *

逃げ込んだ喫茶店、次の日には早速行った。
行って付けを払って、身代の時計を受け取り又付けて、三日目ぐらいだろうか。
店主があからさまに痩せ細っていっているのに気付いた。
顔色も頗る悪い。酒の発注しなくてはなんて言っていたのに、四日目には酒が切れた。
よくよく眺めると内装の置物が倒れて壊れていたり、ギターはもう薄っすら埃を被っている。
居心地は確かに良かった、なぜなら誰も店に入ってこないから。
少なくともここ数日は。
「……もしかして、そろそろ改装か移転でもするのかい?」
洋酒が無いので日本酒を飲みながら、主に聞く。
その男は、軽く困ったように笑った。
「…決め兼ねていますかね…、あぁ……、何か有りましても、お客さんが最後のお客さんで良かった。」
「おいおい、まるで死ぬような言い方すんなよ。どうだい、一杯」
その遣り取りから、俺は店に行くのを止めた。
次の日、さり気無く俺の行っていた時間に覗きに行くと、明かりは灯っていた。
しかし十分程経っただろうか、ふと部屋の明かりが消えて音も立たなくなった。
俺の為だけに無理して開けていたと、考えるのは調子に乗りすぎなのだろうか。
…昔からそうだった、何処でいたって何をしてたって、俺は目の上の瘤。
兎角腫れ物ってやつだった。
今だってそうだ、上杉邸宅を間借りしているお荷物、引き戻される家でだって、変わりはしない。
最初に居場所を無くさせたのは、あの夫婦だったのに。
各地を転々としたのだって、縛られるのが嫌だったとかそんなのじゃない。
馴染めなかっただけだ。
はなっから出来上がってる空間に、俺の居場所なんて初めから無い。
有ったとしても誰かの、代わり。
求められるのは、何時でも完璧な張りぼて。
その完璧が出来ないなら、親の命を追う様に仕向けられた、息も苦しいあの砌…
屋敷の自室で、何年も眺めて端が丸くなったカンパネラの譜面を見ていた。
この楽曲は好きか嫌いで弾いているものではなかった。
高度な連譜、感傷的過ぎず、己の技量を見せつけ感動させるにはもってこいの曲。
単身で貿易商の家なんかに殴りこんで認めさせる、術に使っていただけ。
慶次は其れを天井のシャンデリアに当たるぐらいに投げ上げた。
紙と紙の間に空気が滑り込み、楽譜が八方に散らばり空気を受けながらゆらゆらと舞い落ちる。
「……あの世にでも行かなけりゃ、逃げれねぇのかな……」
何時までももたもたと宙を泳いでいた最後の楽譜が、床に滑った頃。
廊下で、兄弟の言い合いに似た声がした。
兄弟か…
ふと一人で服を汚して木に登ったり、気に入って名前を付けた馬に話し相手になってもらっていた事が脳裏を過ぎる。