何度も楽譜を読んだので殆ど暗譜しているし、体が、指が勝手に動く。
弾き始め緩やかに、弓を使う。
気持ちを乗せろと言われた。
兼続は眉を顰めて、ちらりとまた先生を窺う。
光秀先生は、両腕を組んでいるのに謙虚に見える。
目は閉じられていて、本当に気持ちを汲み取ろうとしているようだった。
口の中が酸っぱくなってくる。
私は瞳を深く閉じて、四六時中脳裏を離れない、慶兄の事を思い浮かべた。
突然現れたあなたは酷く明るくて、ひょうきんで。
私の知らないことを何でも知っていて。
偶に悪戯をして、何時までも大人の様ではなくて。
あなたの奏でるこの曲は、洒脱な雰囲気を醸して今にも何処かに行ってしまいそう。
何処かに、行って、しまいそう、で…
「もう結構、お止めなさい!」
先生の両手がパチンと叩き鳴らされ、兼続は、はたと瞳を開けた。
「…先せ…」
出した声に、私は思わず構えていたバイオリンを降ろした。
奥歯を噛み締めてみるがそれは、もう、止められるものでは無いのだろう。
光秀先生は、洋服のポケットからハンカチーフを取り出して私の頬に宛がった。
「手の物を貸しなさい…」
机に丁寧に置いた後、先生はもう一度私に向き直り、丁寧に涙を拭取ってくれた。
兼続は光秀の袖を掴んで言った。
「先生、お願いです。誰にも…私は男です、泣いた等と…誰にも言わないで、下さい…」
光秀は二度頷いて、兼続の頭を撫でた。
そして、そのまま手を引いて、隣の応接間に兼続を連れて行った。
「此処にお座りなさい。今何か、煕子さんに頼んで来ますから。」
帰ってこられた先生は、甘い香りのする紅茶を運んで来てくださった。
先生が帰ってくるまでにどうにか気持ちを落ち着かせていた私だったが。
落ち着きます、お飲みなさい。と、出された紅茶は驚く位に美味しく落ち着けた。
細く揺らめく湯気を見ながら先生が、言った。
「…差し詰め、身分が違うのかもしれませんね…布が裂けるような音色でした…」
私の貴方の演奏を聞いた結論です、と先生は続ける。
「貴方は一体どの様な…お嬢さんに…懸想しているのでしょうね…」
け、懸想…?
それは空が降って来る位の衝撃だった。
「…辛い恋ですね………私でよければ…」
兼続はこれ以上耳に入らない光秀の話を遮るよう、逃げるように家を飛び出した。
懸想ヲシテイルノデショウネ、辛イ恋デスネ…
何を言って、先生、だって、慶兄は、殿方、懸想?先生…
懸想ヲシテイルノデショウネ、辛イ恋デスネ…
「…ああぁ、まさか…そんな…」
ずっと、名の分らなかったこの気持ち、が。
女人相手なら、恋と呼ばれる代物だったなんて。
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