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蘭麝待



いとやんごとなき際にはあらぬが…優れて時めきを給う、か。
丑三。真、草木も眠る時刻。
慶次は褥を一人抜け、煙草の用具を持ち縁側へ出た。
秋夜は慶次が一等好ましいと、宵っ張りになる季節である。
そんな秋の夜が更けに更け込んだ頃合。
長着を羽織ったしどけない姿で、手に火種を転がしながら紫煙を立ち上らせる様は…
画題になるとしか言いようの無い味があった。
「…嫉妬なんてしないと思っていたんだがねぇ…」
夜風が火照った肌を冷まし色付く前の椛が揺れた。
その呟きは煙草の香と共に風に攫われる。
もう一度煙管で煙を呑みながら、慶次は視線を滑らせて障子の隙間を見た。
中には目合いの相手が褥の上で乱れたまま意識を手放していた。
岡惚れの間柄。
陪臣の身ながら高禄を積まれそれでも靡くことの無かった男である。
武士なれば誰もが謳う、今は麻の如く乱世、主は土台、下克上を旨とせよ。
義など鎹よりも役立たぬ、男子なら天下を目指して然るべきだと。
それでもあんたは涼しい顔をして、主君を立てた。
縁側にかつりと煙管の頭を叩きつけ中の灰を捨て、星明りを頼りに顔の輪郭を追う。
憎いほどに浮ぶ白皙の肌と丹花の唇が匂い立ち、張り付いた前髪が何かの拍子に落ちた。
慶次は目を見開いた。
もう忘却の彼方になっていた昔話。
第六天魔王と言われた奴が居た。叔父貴を可愛がっていた男だ。
俺から全てを奪ったその男が、馬鹿馬鹿しそうに言っていた。
…蘭麝待…女色に惑わぬ者でさえ、その香りに狂う…理解できぬ…、と。
その折俺は、魔王が投げて寄越したその香木に鼻を寄せた。
嗚呼…その香がするんだ、あんたは。
禄と引き換えにしても欲しいと願う程の、困惑的な香が。
そして俺は漸くあんたを荒く求めた訳に気付いた。
…太閤殿が、傾奇者よと持ち上げながら耳打ちをした。
舐める様な目付きで、あの陪臣が欲しいと。
女にしか興味が無い筈なのに。
俺の目の前で色目を使って兼続を欲したからだ。
見詰めていた念友の柔い唇が微かに口を開いた。
潤色の眸が薄い星明りを集めて、徐に揺らめき俺を捉える。
「……無体、すまいぞ…」
その扇情的な姿から出る…背徳な、呟きと言ったら…!