夢幻泡影 芙蓉帖





夢幻泡影 芙蓉帖



褪せる記憶を重ね塗り
螺旋を描き落ちて逝く

三成は何の前触れもなく目覚めた。
いや、目覚めざるをえなかった気がする。
「…葉か…?」
寝そべって頬をつけていた三成は、地平の様に広がる緑を撫でた。
つるりと光沢があり、どこか白身ががった緑。
よく分からないが、首の辺りがむずむずした。
「…首…」
三成は身を起こしながら後ろ首を撫でた。
ほんのりと滑りを感じて、忘れかけていた事実を思い出す。
「…俺は、首を打たれたのだったな…」
しかし不思議なことに首はくっついている。
しかも全く痛くなかった。
「訳がわからぬ」
三成は釈然としないままに辺りを眺めた。
ほとんど視界が利かない。
その上、不気味に霧には桃色や若草色が仄かについていた。
地上ではまず有り得ない光景。
言うなれば、黄泉。あるいは極楽。
蓮の上のような…
「…まさか…」
しかし、そのまさかでしか説明出来そうに無い。
立ち上がって辺りを見回す。
濃い霧の奥に微かに巨大な蓮の花が在る様にも見える。
「…左近」
もし此所が蓮の上ならば。
来世を願ったあいつがいる筈。
三成は張り裂けそうな心臓を押さえて、名前を叫んだ。
「何処だ、左近!」
返事はない。
だが、そんなはずは無い。
「左近!」
力一杯叫んだ、途端だった。
「なんですか?」
僅かにだが、左近の声がした。
声がする方に闇雲に近寄ると、そこには胡座をかいた左近がいた。
「左近…」
三成は跪いて肩を鷲掴んだ。
二度と会えるとは思って無かった。
だからこそ会えて嬉しい。
「…っと、綺麗な顔してますね…貴方は誰ですか?」
しかしながら、発せられた言葉に三成は愕然とする。
お前は今なんと言った?こんな時に迄悪ふざけ等…
「左近…俺だ、三成だ。忘れたとは言わせ」
「…済みません。左近ってのは俺の事なんですか?」
三成は信じられなかった、信じたく無かった。
わなわなと震える体で左近の肩を揺らした。
そして力任せに左近を突き倒して涙声で喚く。
「俺だ!三成だ!覚えているだろう!?」
左近はえらく驚き顔で、涙を落す三成を見上げていた。
「な、泣く事はないでしょう…それに、女でなけりゃみっともないだけですよ」
三成は震えながら体を縮こまらせ、左近の胸板に顔を押し当てた。
冗談ではないことぐらい、好いていた相手の事だ、分からない俺ではない。
切なくて苦しくて悔しくて、涙が止まらない。
「……俺だ…三成だ…っ」
左近はただ迷惑気味に、三成をあやすよう髪を撫でた。
「取敢えず、泣きやんで下さいよ。」
しかしそれは、三成の行き場のない思いを掻き乱す。
三成はしがみついて泣いた。
いま離れれば二度と触れられない気がした。
もうそんなのも堪えられなかった。
「…俺が悪かった…んだと思いますから…」
俺は致し方なく泣きながら頭を振った。
左近の方はどうしていいか分からない。
「…三成さんでしたよね、退いてく」
「嫌だ!」
「三成さ」
「呼ぶなぁっ!」
その顔で俺を忘れたと言うのなら。
その声で俺を呼ばないでくれ。
心が壊れて、どうにかなりそうだから。
「…頼むから、思い出せ…さ」
三成は突然言い淀んだ。
信じられなくて目を見開く。
慌てて押し倒したあいつの顔を覗く。
三成は信じたくなくて、潤んだ瞳で何度も顔の輪郭をなぞった。
しかしそれは、憎いほどに紛れもない事実として俺を襲う。
「…嘘だ…っ」
死しても一緒だと誓った。
お前の名が出てこない。
「…嘘だっ!」
三成の身体が震え涙がぽたぽたと左近の頬に落ちた。
「嫌だ!」
はっきりと残酷な程に、お前との日々が思い出せない。
「お前をこれ程に好いて居るのにっ!」
三成は覆い被さるように左近を抱き締めた。
左近は叫び声に面食らいながらも三成の背に腕を回す。
何故かは分からないが、そうしなければならないのだろうと思えたのだろう。
「…何でか貴方に泣かれると辛いので、泣かないで下さい」
あらんかぎりの力で左近を抱き締めた。
「…忘れたくない…!」
だが言葉とは裏腹に、三成の涙がぴたりと止んだ。
瞳から落ちる涙が不可思議で堪らない。
なぜ俺は泣いてなどいるのだろう。
三成はごしごしと己の袖で涙を拭い鼻を啜った。
目下の男は、優しい声音で大丈夫かときいてきた。
「…済まぬ、とんだ醜態を見せた…」
身体を剥して、三成はゆっくりと身体を起こした。
何故押し倒したのか分からないが、俺が乗っかっていた手前。
俺のせいだろう、と三成は、不本意そうに片手を差し出した。
「…掴まると良い」
左近は小さく笑って、手を握った。
「…お言葉に甘えて」
ぐいっと引起してやり、十分起きたのを確認して手を離した。
最後の最後まで触れていた指先が離れた瞬間。
名残惜しさみたいなものが消えた。
「…」
三成は長いこと、触れていた手を眺め続けた。
「…済みません、ところで貴方の名…何でしたっけね」
左近は思い出せないことがばつが悪そうに三成に問い掛けた。
三成は少し左近を見詰めた。
「分らぬ。良く思い出せぬのだ。…それよりお前こそなんと言う?」
二人は考え込んでしまったが、不毛だと悟り思い出すのを止めた。
人は忘れられるから幸せなのかもしれない。
誰かがそんなことを言っていた気がする。
立ち込めている淡い色の付いた霧。
薄い桜色の蓮。
ふと、目の前の男の腕に掻き毟った痕を見付けた。
「…どうした、随分と深い爪痕だな…」
するとその男は、思い出せないんですが…と苦く笑った。
「何か忘れたくなくて、余っ程悔しかった事があったのは覚えているんですよ。」