反実仮想





反実仮想



虎が傍らで靡き寝て
暁月は仄か優しがる

お預けを食らった虎が業を煮やしたのだと。
気付いたのは、いつもの部屋が反転した後だった。
「、危ないではないか!」
右には墨を含んだ筆。
左にはぬるい茶の入った湯飲み。
わざわざ一服をとる為に、仕事を中断するのが惜しい。
だから、左手でいつもの所定位置に置いてある湯飲みを手探りで掴んだ。
と思ったら、そこには慶次が机に肘を付いて私を眺めて居た。
正直な話。
何時からそこに居て、どれくらい経つのか。
全く見当が付かない。
ひとつ言えるなら、やたらと機嫌を損ねていることぐらいだった。
「………粗茶です…が…」
「……………済まない」
兼続は堪らなく居辛い部屋を今すぐにでも飛び出したかった。
取敢えず、渡してくれた茶を啜る。
冷めた茶は渋くてほろ苦い。
「後、三日もすれば一通り終えるよ…だから、もう暫く待ってくれ」
多分それが引き金だったに違いない。
「…………」
いつもの爽快な笑い声は何処へやら。
「慶次、畳に零すし付くから」
平行感覚が著しく麻痺した兼続は、下だと思われる方にゆっくりと湯飲みを置いた。
「…せめて、筆…」
慶次は言い終わる前に、その筆先を何の躊躇いもなく握った。
後から抱き締められ横に倒され。
兼続は降参するしかなかった。
外では鳥が囀り、梢を行ったり来たりしている。
その度に枝は跳ねふわふわと揺らぐ。
「………」
余りに長閑かな庭に、兼続の仕事をする気が失せてゆく。
「…今日はもう止めるよ、慶次」
兼続は首を動かして慶次の顔を見た。
慶次の顔が優しく和らぐ。
「心許無かったんだぜ?これでも…」
筆を握った手はそのままに、もう片方で兼続を引き寄せ肩に顔を埋めた。
「…悪かった、だから筆を離せ…手が汚れてしまったな…」
兼続は慶次の手を開かせ筆を取り、懐紙で拭いてやった。
全く、この虎は…
兼続は困り顔でくすりと笑った。
もう少しだけこの状態で居ても良いかも知れないな。
兼続はぼんやりといつもと違う角度からの景色を眺めた。
「…待てない」
慶次は唐突に、肩口から声を発した。
兼続はもう一度顔だけ振り返る。
「何を?」
「夜を」
まるで、臼に杵で餅をつくような拍子の良さ。
「…俺を焦らして、楽しいかぃ?…」
慶次は上目遣いで懇願した。
おまけに低く甘い声で、なかなかに艶っぽく。
兼続の顔から火が出た。
「けけ、慶次っ!白昼もいいところだぞっ!」
眉を顰め窘めているにも関わらず、顔は赤いので慶次は笑って覗いている。
「駄目だ、慶次!私は取り合わんからな!」
しかし、慶次は笑いながら顔を近付けてくる。
兼続は慌てて顔を戻して、ふるふると頭を振った。
束ねていない前髪が畳に擦れてさらさらと音を出す。
「…つれないねぇ…」
慶次の鼻先が、兼続の首筋に触れた。
兼続は微動して、耳や首まで紅くした。
「いかん!そのようなことは夜!夜迄してはならん!」
窘める声は恥ずかしさに震えてしまう。
増長させると分かって居るのに、体は言うことを聞かない。
兼続は泣きそうになった。
「不義だ!不義!不義なのだっ!」
兼続は不義だと連呼しながら、腹に回されている慶次の腕を退けようと懸命に持ち上げる。
慶次はその儚い抵抗をいとも簡単に制した。
更に抱き寄せ耳元で囁く。
「…獣に理性なんて、無かったりしてねぇ…」
兼続は体を震わせて、声にならない声をだす。
「好い加減にしろぉっ!」
慶次はふっと息を吐き、兼続の口を塞いだ。
その時。
「兼続様、上様より言付けの書状を受け取りに上がりました」
景勝様の小姓の声が、障子の向こうから聞こえた。
兼続の顔は青褪める。
しかもあろうことか。
「入んな」
慶次は入室を促したではないか。
兼続は慶次の手を口から無理に剥して叫んだ。
「開けてはならん!!」
小姓は跪き、両手で開けていた動きをぴたりと止めた。
しかし、半開きになった障子からの光景なんてのは。
想像に難くない。
「しっ失礼致しましたぁっ!」
すぱん。と小気味の良い閉まる音。
それと共に、裏返った小姓の声。
「ご、ごゆっくり為されて下さい、ませ…」
それも可愛らしく窄んでいき、終いには部屋を離れる足音まで。
「待て!違う!書状は出来ている!離せ慶次!」
兼続は慌てふためき、慶次を残して部屋を飛び出した。
「誤解するでないっ!!」
しかし、無情にもその叫びは小姓には届かない。
それぐらい早足で小姓はその場を去ったのだ。
「…、こんなことってないだろう…!」
兼続は半泣きになりながら慶次に目もくれず後を追いかけた。
「…あぁ、つまんねぇ…」
取り残された慶次は身を起こして、胡座をかいた。
慶次は兼続が閉めずに出て行った障子を見詰める。
そして視線を滑らせて、元から開いていた障子から外を眺めた。
囀っていた小鳥達はもう居ない。
「…好事魔多しって…事かね…」
慶次はそう言うと、兼続の飲み掛けの茶を飲んだ。
夜は未だ来ない。