杏さまより
兼続の部屋の書棚の上に、古い木箱が置いてあるのに気がついた
硯箱にしては大きく
衣装箱にしては小さい
中途半端な大きさのその木箱に詰まっていたのは
燦然と輝く金色の
――………かに??
千金の誉
きちんと整理された書棚の上、それだけが拗ねたようにそっぽを向いていたその木箱に、何ともいえない違和感を感じたのはたぶん、彼を知り過ぎてしまった証なんだろう。
どうするか、と一瞬ためらった後、それでも好奇心には勝てず、慶次は木箱に手を伸ばした。
薄く埃をかぶった蓋を開けると、中に入っていたのは真っ赤な包み。その結び目が、解いてくれといわんばかりに慶次の視界にまっすぐ飛び込んできた。
「悪ぃ、兼続」
この場にいない箱の持ち主に小さく詫びて、慶次が器用に片手で解いた布に包まれていたのは。
大小さまざまな大きさの、金色に輝く蟹の置物だった。
――金の蟹ねぇ…
彼らしい趣味とは思えない。
慶次は蟹を一つつまみ上げると、軽く噛んでみて、驚いた。
信じがたいことにその蟹は、純度の高い本物の金で作られていたのだ。
――なにか面白ぇ話が聞けそうだな
箱を片手に、慶次があれこれと思案を始めた矢先、部屋の主が帰ってきた。
「慶次!来てたのか!」
そう言って、爽やかに笑いながら歩いてくる兼続。
…と、箱いっぱいの黄金の蟹――
慶次は考えることを諦めて、兼続の方を向いた。
「兼続、これよぅ」
ぴいん、と弾かれた蟹が一匹、兼続の手元に飛び込む。
「…む。なんだこの蟹、悪趣味な… ん?」
眉を寄せた兼続の視線が、慶次の持つ木箱の方に注がれた。
「ああ!それか!ははははは、思い出した。慶次それはな――」
◇
秀吉がまだ健在だった頃、大坂城である余興が行われることになった。
新しく完成した伏見の城に居を移すので、この城の池に飾っていた蟹の置物を、大名達に分け与えてやろうというのだ。
しかしそこは秀吉、勿論やすやすとは配らない。
『ただし、誰にでもやるっちゅう訳じゃあないぞ。なんで蟹が欲しいんか、どういうことに使うんか、納得のいく理由を言えた者にやろうと思うんさ――』
「秀吉様!」
一斉に蟹を睨んで黙り込んだ皆を尻目に、一番に口火を切ったのは伊達政宗だった。
「その黄金の蟹、わしは床の間の飾り物にしたく…」
「ほう、床の間の飾りか。それならよかろう。ほれこの大きいのを一匹やろう」
「は!ありがたき幸せ」
一際大きな蟹を受け取った政宗は、してやったりと皆を見渡した。
「秀吉様」
穏やかな声と共に進み出たのは、徳川家康。
「私はその蟹、家宝にして代々伝えていこうと思っております」
「そうかそうか。ではこの中くらいのをやろう」
「秀吉様!私は紙を押さえる文鎮に」
「秀吉様!」
「秀吉様!」
大なり小なり、次々と金色に輝く蟹を手にして喜ぶ大名達。
それを満足そうに見ていた秀吉の目が、一人遠巻きに座っている兼続をとらえた。
「こら兼続!何をそんな所でぼんやりしてるんじゃ。主君に手土産の一つでも持ち帰ろうという心意気はないんか?」
挑むようににやりと笑う秀吉に向き直ると、兼続は無言ですっと頭を垂れた。
「…古豪上杉が不戦敗とは、情けないのう」
さらに挑発する秀吉。
兼続は顔を伏せたまま、ひっそりと溜息をついた。
「…いえ、そのようなことは。その蟹は、秀吉様直々に賜ることのできる名誉ある品。私は是非とも、我が主に持ち帰りたいと思っております…が…」
少しの間を空けて、兼続は「しかし…」と続けた。
「しかしどうした?」
「私の所望する蟹は、一匹では足りませんので」
「ほお、一匹では足りんとな。何に使うんじゃ?」
兼続の顔がゆっくりと上がった。
「上杉は武の誉れ高い家でございます。あの蟹同士、戦わせてみてはいかがだろうと考えておりまして」
「ほ!こりゃまたうまいこと言ったな。よし、そういうことならおまえには二匹、くれてやろう」
挑発に乗った兼続に気を良くした秀吉は、蟹の山を叩き「こっちへ来い」と手招きをした。ところが兼続はその場を動かない。
そしてさらに言葉を続けた。
「…畏れながら、秀吉様。戦とはやはり東西に分け、主将、副将、騎兵に歩兵、鉄砲隊や弓隊まで、それぞれいなければ始まらないかと」
己を直視しながら、立て板に水とばかりに言い切った彼に、秀吉は軽快な笑いを返した。
「こいつぬけぬけと!はっはっはっ、しかしそれも道理か!こりゃ一本とられたな」
秀吉は下敷にしていた風呂敷で蟹をまとめて一包みにすると、それを兼続の目の前にずいっと差し出した。
「褒美じゃ、この蟹はみなおまえにやるから持って帰れ」
途端、一斉に兼続に寄せられた皆の羨望の眼差し。
しかし兼続は、にこりともすることなく包みを受け取ると、実に丁寧に頭を下げた。
「では我が主君の為に――
この装飾品はありがたく頂戴いたします」
◇
「っははは!あんたらしい、なんとも痛快な話じゃねぇか。
…けどなんでそれがここにあるんだい?」
「景勝様はそんな悪趣味な装飾品は好まれないのでな」
持って行っても仕方ない、と言って笑うと、兼続は書棚の上に置かれた蓋に手を伸ばした。
「城で埃をかぶるか、ここで埃をかぶるか…」
笑みを残したまま、慶次の持つ箱に蓋をかぶせた兼続だったが、ふと思いついたように顔を上げた。
「…なんなら慶次、持って帰るか?」
銀灰色の瞳に、からかうような愉し気な光が踊っている。
慶次は苦笑いをして兼続の頭をくしゃくしゃと撫でると、木箱を元の場所に、元通りに置いた。
「いや、いらねぇ。この蟹には気の毒だが、あんたの部屋で埃をかぶってる方が話として乙だと思うんでね。
…それに」
「それに?」
「俺の家に来たところで、やっぱりこいつらは隅っこで埃をかぶってるのがオチだろうよ――」
-終-
次