松風に無理をさせているのは分かっている。
恨むなら俺に惚れられた事を恨んでくれ。
慶次は松風に暇も与えずに走らせ続けていた。
握りつぶしてしまった手紙を懐に突っ込んで、夢中で走った。
「…兼続っ…」
わざわざ手紙を女手で書いたのは多分、出所を分からなくする為。
万が一俺以外に見られても、俺に宛てられた女からの手紙だと言うことにする為だろう。
なんであんなところに隠したのかはきっと、見つかりにくくする為。
生きて帰れた時にはこの手紙を回収して、何食わぬ顔で過ごすつもりだったのかもしれない。
日時を書かなかったのは、恐らく確実に死んでから亡骸を見つけて欲しいから。
「…死なせねぇ、俺を置いて死にさせやしねぇ!」
慶次は当て推量で東山道方面に急いでいた。
はっきり言って賭けだったが、でもなんとなく予想はつく。
仰々しいと言っていた手紙、あれは多分伊達の文だ。
前に太閤殿下の所に十字架を担いできたのは有名な話。
あいつは大袈裟な振る舞いが好きだ。大名行列もまた然り。
切っていた風が湿り気を増してきた気がして、慶次は空を仰いだ。
怪しい雲行き。
所謂黒煙のような低い雲がだんだんとこちらに流れてくる。
「…あんた…泣いてんのか…」
間も無く、慶次の呟きに答えるようにぽつぽつと雨が降り出した。
* * *
兼続は寺院から出て、米沢に発っていた。
寺院の僧らが泊まっていくといいとの憐れみを断って、井戸の水だけをかりて頭から被った。
何度も繰り返し体を清めた兼続は俯き加減だった顔をあげて、何かを決心したように胸を張った。
そして訪問したときの着物ではなく、あの時着ていた白装束を再び着た。
それを見た僧が怪訝に問いかける。
「…どうしてお召し物を換えないのですか…?」
兼続は慶次の華美な髪紐で髪を結いながら微笑した。
「…白が似合うと、言ってくれた人が…居てな…」
しかし、と僧は眉を下げた。
此処の僧たちは今日の出来事を全て知っている。
この世の理となった関ヶ原での勝者の命は絶対である。
仏を恐れぬ輩も諸大名には少なくはない。
もしも、命に背こうものなら本願寺焼き討ちのような憂き目を見るかもしれないのである。
「大丈夫だ、そなたらは…私が必ず…守る故」
兼続は其の侭先刻来た道を引き返すと告げ、今は山道を下り続けていた。
檜林を抜けるうちに、ぱらぱらと雨が降り始める。
兼続は、もし死ぬならと目をつけていた国境の木小屋に急いだ。
* * *
雨はやがて雨脚を強め、どんどん体温を奪っていった。
だが慶次はひたすらに目を細め見知った顔を捜す。
ふと目の前に道の傍に建てられた木小屋が現れる。
よっぽど視界が不明瞭なのか、こんなに近くになるまで気付かなかった。
慶次は己の血の気の引くのを感じた。
「兼続」
松風から飛び降りて、木小屋の戸を抉じ開ける。
広がる景色には、白い服を纏った男も血の海も見受けられない。
慶次は戸を閉めるのも忘れて再び松風に跨る。
一応ここらが国境になるから、兼続は未だ着いてない。
…でも、もしくは…もう…
水を吸った金糸が肌に張り付き重い。
着物も重さを増して、体を心を苛ませる。
「何処に居るんだ…いったい、何処」
途方に暮れて瞳を上げた瞬間だった。
余りに強くその姿を見たいと祈ったからかとも思う位。
近くに、その美しい人は居た。
驚きを隠せて居ない顔で雨に打たれながら馬に乗る兼続。
居た。生きてた。
慶次は良かったと、近づいて抱き締めようと松風を歩かせた。
近づく程にまやかしでは無い、あやかしでも無いと。
頬に触れようとした刹那。
「私に触れるなっ!!」
兼続は乗っていた馬の手綱を強く引いて、鐙を鳴らし帰って来た道を逆走した。
遠ざかる姿に、慌てて慶次も後を追う。
大抵ならどの馬にも負けない俊足を誇る松風も走らせ続けたせいか、兼続には追いつかない。
何で逃げる。
慶次は土砂降りの雨に兼続を見失わないように懸命に追いかける。
触れるなと言われた言葉が、胸にだんだん染み込んでくる。
「兼続、どうして…!」
叫ぶ声が雨粒に消されても叫ばずには居られなかった。
「なぁっ!兼続!」
その真意を聞きたかった。
するといきなり、前の馬が止まった。
急いで手綱を引き、松風を止めて馬上の兼続を見た。
筈なのに、目の前の馬の上には兼続の姿は無い。
気が付けばその奥は檜林となっていて、白い物が上へと逃げていた。
「兼続っ」
慶次も馬を降り直ぐに後を追い、道無き道を兼続を追って這い上がる。
途中、何度か兼続は袴に足を取られて止まる。
唯でさえ雑草に雨が降り滑りやすく、苔の生えた岩はぬめる。
普段着ない着物は、思うようには動いてくれないのだろう。
慶次はその間に間を詰めて、そしてとうとう捕まえることが出来るまで間合いを詰めた。
抱き締めてこれ以上逃げないようにしようと手を伸ばした。
「触れるなっ!!」
兼続は悲鳴のような声を出して、振り返り手に持った柄の無い刀をこちらに向けた。
「死なせてくれ…」
檜が雨を防いでくれるせいか、さっきよりかは弱い雨が二人を打っていた。
「な、何言ってるんだ…なんでこんな手紙…」
慶次は懐から手紙を出したが、水に濡れて何が書かれてあったのか定かではない。
触れるなと言われたことが身を喰らい尽くすのではないかと思われる程に痛い。
様々な思いが綯い交ぜになって慶次は言葉が続かない。
何故拒むのか。慶次は分からず一歩詰めた。
「来るなっ」
寒さで震えているのか、俺に刃を向けているのに震えているのか。
兼続は雨で濡れに濡れた顔で俺を睨んだ。
「私は、己が許せんのだっ」
後退りながら兼続の目尻に涙が浮かぶ。
「山犬に辱められた」
時折背中で木にぶつかりながらも俺から視線を剥がさない兼続。
「義に生きた三成を見殺し、義を貫いた幸村を敵に回して」
頬を流れるのは間違いなく涙。
「お前は上杉まで滅ぼすのかと、民までもを殺すのかと言われたっ」
息をするのも苦しそうに兼続は泣いた。
深い青緑が広がる上を、袴に裾模様を作りながら。
「自分本位の義など、義ではないと…何が義だ笑わせると」
顔も体も泥まみれになりながら兼続はなおも逃げる。
慶次は、静かに頭を横に振った。
「そうだ、私は友との誓いを破り一人生きながらえた」
どうして。
「挙句、私はそなたと民を秤にかけて…っ」
慶次は逃げる兼続を無意識に追った。
「民を選んだんだ。そなたまでをも蔑ろにしたんだっ」
なぁ、どうして。
「分かっているさ、私が抱かれた所で上杉が永劫安泰で無いことぐらい!」
兼続は刀を握ったままの手で、顔に手を宛てた。
「でも、だったらどうしたら良かったんだっ!」
慶次はもう逃げる気力も無い兼続を抱き締めた。
手に握られていた刀は、石にぶつかり金属音を出しながら斜面を滑った。
「身を捧げたら、印など数々の非礼は赦してやろうと言われたっ…」
慶次は兼続の頭を自分の肩に抱え、無言で抱き締める。
「私は、あいつに赦して貰う気など更々無かった!」
ただ声を荒げて、捲くし立てるその姿。
「腹を掻っ捌いて意地を通そうとっ…思っ…」
どうして、どうして。
「どうしてあんたばっかり、そんな傷つかなきゃなんねぇんだよ!」
兼続は、だってだったらどうしたらっ、と叫び過ぎて掠れた声で慶次言った。
「あんたも米沢の民だろうがっ…!一人の犠牲で成り立つ国なんて国じゃねぇよっ!」
兼続は慶次の肩に顔を預け、幼子のように泣きじゃくった。
すまぬと一つ覚えの様に言いながら、そなた以外に体を許したと言いながら。
何を謝る必要がある。
心も体もぼろぼろになりながら、触れられるなら死のうとまでした男に身を擲って。
仕方がなかったのにも拘らず俺の為に葛藤して…
「…それしか無かったんだろ…?」
慶次はもういいよ。と降りしきる雨から兼続を守るように抱すくめてしゃがんだ。
こんな綺麗な涙、今だかつて一度も見たことはない。
こんなに自分の身を削ってまで領民を救おうとした男を見たことも無い。
あんたは、綺麗だ。
慶次はあの日の晩のように背中を擦って、兼続の髪紐を解いてやった。
「…綺麗だ…」
頭を撫でながら慶次は兼続の涙を吸った。
傍に居るのに分からなかった兼続の心。
気付いてやれなかった不甲斐無さ。
悪いのは気付いてやれなかった俺の方。
あんなに近くに居て、真っ直ぐなあんたが拙いながらもついた嘘を分かれなかった…
どうしようもなく愚かしいのは俺の方だよ。
慶次はごめんと言い、氷のように凍て付いた体を強く強く抱き締めた。
兼続はそんなことはないと抱きついてくる。
「疲れたろう…、お帰り…兼続」
腕の中の兼続はぴくっと動いて、おずおずと俺を見上げた。
「ただいま、ただいまっ…慶次…ただいま…」
しとしとと降り続く雨が互いを打って、顔の泥が落ちる。
兼続の黒橡の瞳からぽろぽろと落ちる涙は、割れた水晶ように眩しく愛おしくて限りなく儚かった。
終